序論:アルファ探求の新たな地平
金融市場における競争優位性の源泉は、常に情報優位性にあった。しかし、その源泉は今、構造的な変化に直面している。かつて専門家のみがアクセスし得た財務諸表、株価、経済指標といった伝統的データは、技術の進歩により瞬時に、かつ安価に誰もがアクセスできるコモディティと化した 1。この情報の対称化は、伝統的データのみに依存する投資戦略の優位性、すなわち「アルファ」を構造的に侵食している。金融用語におけるアルファとは、市場平均(ベンチマーク)をどれだけ上回る超過リターンを生み出せたかを示す指標であり、ファンドマネージャーや投資家のスキルを測るための重要な尺度である 3。このアルファの源泉が枯渇しつつある現代において、市場参加者は新たな情報フロンティアの開拓を迫られている。
この歴史的課題に対する最も有望な解答として台頭してきたのが、「オルタナティブデータ」である。オルタナティブデータとは、企業のIR活動や証券取引所から公式に提供される伝統的データとは一線を画し、企業の事業活動の結果として副次的に生成される、非公式かつ非構造的な「データ排気ガス(Data Exhaust)」と表現されることもある 6。その具体例は、地球を周回する衛星が捉えた画像、我々が日々持ち歩くモバイルデバイスが生成する位置情報、クレジットカードの決済履歴、そしてソーシャルメディア(SNS)上に溢れる無数の投稿など、多岐にわたる 6。これらのデータは、伝統的データが過去の出来事を集計した「結果」を報告するのに対し、経済活動の「今」をリアルタイムで、かつ圧倒的な粒度で映し出す鏡である。この特性こそが、オルタナティブデータが次世代のアルファ創出の鍵と見なされる所以である。
本稿の目的は、この新たな情報源がもたらす金融市場の変革の全体像を、具体的かつ多角的に解き明かすことにある。まず、オルタナティブデータ市場の驚異的な成長をマクロな視点から概観する。次に、衛星画像、位置情報、決済データ、テキストデータといった具体的なデータソースを取り上げ、それらが如何にして実践的なトレーディング・アルファに転換されるのかを、現実の活用事例を交えて詳細に分析する。さらに、この新時代のデータ活用を技術的に可能にする人工知能(AI)、特に新たな戦略を自律的に創造するジェネレーティブAI(GenAI)と、その判断プロセスの透明性を担保する説明可能AI(XAI)の決定的な役割を論じる。最後に、このフロンティアに必然的に伴う技術的・倫理的課題を直視し、次世代のトレーディングエッジを確立するために不可欠なツールと考え方を提示する。
第1章:爆発的に拡大する新市場:数字で見るオルタナティブデータ
オルタナティブデータは、もはやニッチな存在ではない。それは金融業界の構造を塗り替えつつある、巨大な成長市場である。各種調査機関のレポートは、その市場規模が指数関数的な成長軌道に乗っていることを示唆している。
市場規模の指数関数的成長
世界のオルタナティブデータ市場は、2024年に約92.8億ドルと評価され、2034年には約6,353.4億ドルに達すると予測されている。これは、年平均成長率(CAGR)にして52.60%という驚異的なペースである 10。他の調査でも、2021年の27億ドルから2030年には1,433億ドルへと約50倍に拡大するとの予測や 11、2033年までに1,438億ドルに達するとの見方もあり 12、その急成長は疑う余地がない。
この潮流は日本市場も例外ではない。日本のオルタナティブデータ市場は、2024年の5億2,570万ドルから2033年には79億4,540万ドルへと、CAGR 35.22%での着実な成長が見込まれている 13。この背景には、デジタル化の進展により実世界のデータが大量に生成されるようになったこと、そしてそれを分析するAI技術が成熟したことがある 11。
成長の牽引役:ヘッジファンドとAI技術
市場成長を牽引する最大のドライバーは、常に情報優位性を追求し、アルファ創出にしのぎを削るヘッジファンドからの旺盛な需要である 10。現在、ヘッジファンド運営者の半数以上が、市場を出し抜くための競争優位性を得る目的でオルタナティブデータを活用していると報告されており 10、このセグメントが市場全体の約半分の収益を占めている 12。
この需要を技術的に支えているのが、AIとビッグデータ分析技術の飛躍的な進化である。AI、特に機械学習(ML)アルゴリズムは、衛星画像、SNS投稿、取引データといった、人間では処理不可能なほど膨大かつ非構造的なデータセットから、意味のある洞察(インサイト)を引き出すことを可能にした 7。これにより、従来のデータ分析では決して発見できなかった微細なパターンや相関関係を捉え、それを投資シグナルへと変換する道が開かれたのである。
この新しいデータの価値を理解するために、伝統的データとの本質的な違いを以下の表にまとめる。
| 評価軸 | 伝統的データ (Traditional Data) | オルタナティブデータ (Alternative Data) |
| 情報源 | 企業発表(決算短信、プレスリリース)、証券取引所データ、政府統計 | 衛星、モバイルデバイス、SNS、決済システム、ウェブサイト等 |
| 速報性 | 低い(四半期ごと、月次など、事後的に発表) | 高い(日次、リアルタイムに近い頻度で取得可能) |
| 粒度 | 低い(企業全体、国全体など集計済み) | 高い(店舗単位、製品SKU単位、個人単位(匿名化)など) |
| 構造 | 構造化データ(整理された表形式) | 非構造化データ(画像、テキスト、位置情報など)が中心 |
| アクセス性 | 容易(広く公開されている) | 困難(専門ベンダーからの購入や独自収集が必要) |
| コスト | 比較的安価、または無料 | 高額(データセットあたり数千万円以上の場合も) [18] |
| 分析手法 | 伝統的な統計分析、財務モデリング | 機械学習、自然言語処理、コンピュータビジョンなど高度なAI技術が必須 |
| 課題 | 情報の陳腐化、競合との差別化困難 | データ品質、ノイズ、プライバシー、過剰適合リスク 2 |
この市場の急成長は、単に新しいデータソースが投資家に提供されるようになったという以上の意味を持つ。それは、データ生成者(衛星会社、アプリ開発者)、データ加工・集約者(生データをクレンジングし構造化する企業)、専門ベンダー(金融機関向けにデータを販売する企業)、そして最終利用者(ヘッジファンド等)から成る、全く新しい、高度に専門化された経済エコシステムの出現を意味している。このエコシステムにおいては、競争優位性の源泉は、単にデータを「保有」することから、優れた「アクセス」、高度な「処理能力」、そして精緻な「分析モデル」をいかに構築するかに移行している。生データは多くの場合、そのままでは投資判断に利用できず 1、その価値を引き出すためには、データエンジニアリング、データサイエンス、そしてコンプライアンスへの多大な投資が不可欠となる。これは、大規模で技術的に洗練された組織に有利に働く構造的変化である。
第2章:物理的世界のデジタル化:具体的なデータソースと活用事例
オルタナティブデータの真価は、その多様性と具体性にある。ここでは、物理的世界の経済活動をデジタルデータとして捉える代表的な4つのデータソースを取り上げ、それぞれがどのようにして具体的な投資アルファを生み出すのかを事例と共に詳述する。
2.1 衛星の目:原油貯蔵量から小売業の売上まで
衛星画像技術は、地上で展開される物理的な経済活動をマクロレベルで監視し、公式発表に先行して需給動向や企業業績を把握するための強力なツールとなっている 19。
その最も象徴的な活用事例がエネルギー市場である。世界の主要な石油貯蔵タンクの多くは、貯蔵量に応じて屋根が上下する「フローティングルーフ(浮き屋根)」方式を採用している。衛星、特に天候に左右されず雲を透過して観測可能な合成開口レーダー(SAR)を用いてこの屋根が落とす影の面積を周期的に計測することで、タンク内に貯蔵されている原油の量を高精度で推定することが可能となる 21。
データ分析企業Ursa Space Systemsが提供する「Oil Inventory Index」は、この手法を用いて世界の原油在庫を日次で算出し、投資家に提供している。驚くべきことに、この指数は国際的な原油価格の指標であるブレント原油先物価格と-0.86という極めて強い負の相関関係を示し、価格変動の信頼性の高い先行指標として機能していることが報告されている 21。
政府や国際機関が発表する公式の在庫統計が数週間遅れの遅行指標であるのに対し、衛星データはリアルタイムの需給バランスを直接的に捉えることで、明確な情報優位性、すなわちアルファを生み出すのである 24。
この「物理的資産の監視」というアプローチは、小売業にも応用されている。早くも2009年には、データ分析のパイオニアであるRS Metrics社が、ウォルマートの店舗駐車場の車両数を衛星画像で時系列に分析し、その数が企業の四半期売上と強く相関することを発見したという逸話は有名である 9。
この手法は現在、ヘッジファンドや機関投資家の間で広く採用されており、大手小売企業の四半期決算が発表される前に、各店舗への客足の動向を物理的に計測することで、売上高が市場の事前予測を上回るか下回るかを予測し、投資判断に活用している 20。
2.2 人々の足跡:位置情報データが解き明かすリアルタイム経済
スマートフォンのGPS機能などから得られる、個人が特定できないように匿名化・集計化された位置情報(ジオロケーションデータ)は、消費者の物理的な移動パターン、すなわち「人流」を詳細に可視化する 9。これにより、投資家は特定の小売店、レストラン、工場、あるいは大型商業施設への来訪者数(フットフォール)や平均滞在時間をリアルタイムで把握することが可能となる 30。
このデータは、特に小売業やサービス業の業績を予測する上で極めて有効である。投資家は、分析対象とする企業の店舗へのフットフォールデータを時系列で追跡し、それを既存店売上高の先行指標として利用する 30。
例えば、あるファストフードチェーンのフットフォールが前年同月比で増加していれば、それは売上増加の強いシグナルとなる。さらに、競合他社の店舗へのフットフォール数と比較分析を行うことで、特定の市場におけるシェアの変動をリアルタイムで捉えることもできる 33。
実際に、あるクイックサービスレストラン(QSR)チェーンは、位置情報分析を駆使して出店戦略を最適化し、出店した店舗が平均を18%上回る売上を達成したという報告もある 27。
2.3 消費のインパルス:決済データから未来の収益を読む
クレジットカードやデビットカードの匿名化された決済データは、消費者支出の動向を最も直接的かつリアルタイムに捉えることができる、極めて価値の高いデータソースの一つである 35。企業の公式な業績発表は四半期ごとに行われるが、決済データはその数ヶ月前から日々の消費活動を記録しており、業績を予測するための強力な先行シグナルとなる。
投資マネージャーは、特定の小売企業やサービス企業における決済データの総額や取引件数の推移を分析することで、四半期ごとのトップライン収益が市場コンセンサス(アナリスト予測の平均値)を上回るか下回るかを高い確度で予測する 36。
このデータは通常、個別の商品情報を含まない企業レベル(マーチャントレベル)で集計されることが多く、主に企業の売上高全体の予測に用いられる 36。VisaやMastercardといったグローバルな決済ネットワーク企業が発表する決済総額の動向は、マクロ経済全体の健全性を示す重要なバロメーターとしても注目されている 37。
さらに粒度の高い分析を可能にするのが、Eメールレシートデータである。これは、消費者の事前の同意(オプトイン)を得て収集されたEメールの受信箱から、購入確認メールの内容を解析するものである。この手法により、購入された商品のSKU(Stock Keeping Unit:最小管理単位)レベルでの詳細な分析が可能となる 36。
これにより、投資家は特定の新製品の売れ行きや、プロモーションキャンペーンの効果、さらにはブランド間の微細な市場シェアの変動を、極めて高い解像度で追跡することができる。
2.4 市場の心理:LLMが拓く非構造化テキストデータのセンチメント分析
経済ニュース、SNSの投稿、中央銀行の議事録、企業の求人情報といった非構造化テキストデータは、これまで定量分析が困難であった市場参加者の心理(センチメント)や企業の成長期待に関する情報の宝庫である 6。近年の自然言語処理(NLP)、特に大規模言語モデル(LLM)の目覚ましい進化により、これらの膨大なテキストデータから微妙なニュアンスや論調を抽出し、定量的な取引シグナルへと変換することが現実のものとなった 40。
学術研究の世界でも、SNSの投稿(特にTwitter)から抽出されたセンチメントが、株価の将来の動きと有意な相関関係を持つことが数多く示されている 43。一般的に、ポジティブなセンチメントの増加は株価上昇の、ネガティブなセンチメントの増加は株価下落の先行指標となり得ることが確認されている 45。我々AI MQLにおいても、金融ドメインに特化したLLMを活用し、経済ニュースやSNSから市場心理をリアルタイムで抽出し、それをイベントドリブン戦略の精度向上や新たなアルファ創出に繋げるサービスポートフォリオを中核に据えている 39。
これらのデータソースは単独でも強力であるが、真に持続可能なアルファは、複数の異なるオルタナティブデータを戦略的に融合させることによって生まれる。単一のデータソースには、それぞれ固有の弱点やバイアスが存在する。例えば、衛星画像は悪天候に影響され 2、決済データにはサンプリングバイアスが含まれる可能性があり 2、SNSのセンチメントはボットによって意図的に操作されるリスクがある 2。
しかし、これらのデータを組み合わせることで、より多角的で頑健な投資判断が可能となる。例えば、ある小売企業について、位置情報データが「来客数の増加」を示していても、決済データが「平均客単価の減少」を、そして商品レビューのセンチメント分析が「品質への不満」を示していれば、「過度な安売りによるブランド価値の毀損」という、より深く、より正確な仮説を立てることができる。このデータフュージョンこそが、競合他社が容易に模倣できない、次世代のアルファの源泉となるのである。
第3章:次世代アルファ創出のエンジン:AIがもたらす分析の進化
オルタナティブデータが持つ潜在能力を最大限に引き出すためには、人間の分析能力だけでは不十分である。その膨大な量、多様な形式(非構造化)、そして本質的に低い信号対雑音比(Signal-to-Noise Ratio)から、その真価を抽出するには高度なAIおよび機械学習モデルの活用が不可欠となる 2。
3.1 GenAI(ジェネレーティブAI):自律的な戦略探索エージェント
従来の予測AIが過去のデータから未来のパターンを予測することに主眼を置いていたのに対し、ジェネレーティブAI(GenAI)は、データから学習したパターンに基づいて、新たなコンテンツやアイデア、あるいは戦略そのものを「創造」する能力を持つ。この革新的な能力を金融市場に応用することで、これまで人間のアナリストやクオンツには不可能であったスケールと速度で、新たなアルファ源泉を体系的に探索する道が開かれる 39。
これは、単に既存の戦略を最適化するレベルの話ではない。オルタナティブデータから得られる無数の微弱なシグナル(例えば、特定の地域の天候パターン、SNS上の特定キーワードの出現頻度、サプライチェーンを監視する衛星画像の微細な変化など)をGenAIが自律的に組み合わせ、これまで誰も着想し得なかった新しい取引戦略の仮説を生成し、その有効性を高速でバックテストし、最適化までを行う。
AI MQLでは、このような「自律型戦略探索エージェント」の開発を、顧客への最先端の価値提供の中核と位置付けている 39。これは、人間のクオンツが持つ創造性と直感をAIで拡張・加速させる試みであり、常に陳腐化のリスクに晒される既存戦略への依存から脱却し、持続的なアルファ創出を目指すための強力なエンジンとなる。
3.2 XAI(説明可能AI):ブラックボックス問題の克服と信頼の構築
一方で、高度なAIモデル、特に深層学習モデルの導入は、その高い予測性能と引き換えに、重大な課題をもたらす。それは、モデルの意思決定プロセスが不透明な「ブラックボックス」と化してしまう問題である 39。オルタナティブデータのように複雑で高次元なデータを入力とする場合、この問題はさらに深刻化する。
「なぜAIはこの銘柄を買いと判断したのか?」という問いに答えられないモデルを、責任ある資産運用やリスク管理の現場で採用することは、極めて困難である。これは、規制当局への説明責任(アカウンタビリティ)や、モデルの信頼性を担保する上で、金融機関が直面する最大の障壁の一つとなっている 48。
この根源的な課題に対する直接的な解決策が、「説明可能AI(Explainable AI, XAI)」である。XAIは、AIの予測結果に対して、「なぜその結論に至ったのか」という根拠を、人間が理解し検証できる形で提示する一連の技術群を指す 39。例えば、LLMを用いたセンチメント分析モデルが特定のニュース記事をポジティブと判断した場合、XAIは「記事中のどの単語や文章が、その判断に最も強く寄与したか」をハイライト表示などで可視化することができる 39。
AI MQLの戦略的方針は、開発する全てのAIモデルにこのXAI技術を標準で搭載することにある。これにより、「モデルの透明性」「リスク管理の高度化」「規制コンプライアンス支援」といった、高価値な金融機関が最も重視する本質的な価値を提供する 39。これは単なる技術的な追加機能ではない。それは、我々が提供するAIが、顧客によって理解され、信頼され、そして管理可能なツールであることを保証する、プロフェッショナリズムの表明そのものである。
GenAIとXAIは、金融という高度に規制された領域において、独立した技術ではなく、相互に不可欠な共生関係にある。GenAIが新たなアルファを創造する革新の「矛」であるならば、XAIはその強力な矛を安全かつ倫理的に運用するための「盾」の役割を果たす。
GenAIが生成する複雑で非直感的な戦略は、そのロジックが不透明である限り、ポートフォリオマネージャーが責任を持って資本を投下することも、規制当局がその利用を承認することもできない。XAIは、その不透明性を取り除き、人間がAIの「思考プロセス」を監査し、その戦略が偽の相関に基づいたものではないことを確認し、潜在的な弱点を特定し、最終的にその頑健性に対する信頼を構築するメカニズムを提供する。GenAIのアルファ創造能力は、XAIが提供する信頼と管理の枠組みがあって初めて、現実の金融市場でその価値を解き放つことができるのである。
第4章:新たなエッジを追求する上での課題と倫理
オルタナティブデータという新たなフロンティアは、無限の可能性を秘める一方で、乗り越えるべき重大な課題と、慎重な配慮を要する倫理的な問題を内包している。これらを無視して短期的な利益を追求することは、長期的な破綻を招きかねない。
4.1 シグナルとノイズ:データ品質という永遠の課題
伝統的データが監査や規制当局の監督を経て提供されるのに対し、オルタナティブデータはそのようなプロセスを経ていないため、その品質は玉石混交であり、多くの場合、大量のノイズ(分析の妨げとなる無関係な情報)を含んでいる 2。例えば、SNSから収集したセンチメントデータは、自動化されたボットによる投稿や、文脈を無視したキーワードのマッチングによって容易に歪められる可能性がある 2。
衛星画像から得られるシグナルは、雲や大気の状態といった天候要因に大きく左右される 2。この本質的に低い信号対雑音比(Signal-to-Noise Ratio)の中から、真に価値のある微弱なシグナルを抽出し、増幅させるためには、高度なデータクレンジング技術、統計的なノイズ除去手法、そして何よりもそのデータが生成された背景を理解する深いドメイン知識が不可欠となる。
4.2 オーバーフィッティング(過剰適合)の罠
オーバーフィッティング(またはカーブフィッティング)は、クオンツ運用における最大の落とし穴の一つである。これは、開発したモデルが分析対象の過去データに過剰に最適化(適合)されてしまい、データに含まれる本質的なパターン(シグナル)だけでなく、偶発的なノイズまでをも学習してしまう現象を指す 52。
その結果、バックテスト(過去データでの検証)では極めて素晴らしいパフォーマンスを示すにもかかわらず、未来の未知のデータ、すなわち実運用環境では全く機能しない、見せかけだけの戦略が生まれてしまう 54。
パラメータの自由度が高く、ノイズを多く含むオルタナティブデータを入力とする複雑な機械学習モデルは、特にこのオーバーフィッティングの罠に陥りやすい 54。「データを十分に拷問すれば、いずれ自白する(If you torture the data long enough, it will confess.)」という統計学の格言が示す通り、強力な計算能力を駆使してデータを探索すれば、経済的な合理性に基づかない、単なる偶然の産物である見せかけの相関関係は必ず見つけ出されてしまう 56。
このリスクを回避するためには、厳格な科学的アプローチが絶対条件となる。最も基本的な対策は、保有するデータを「訓練用(Training)」「検証用(Validation)」「テスト用(Hold-out)」の3つに厳密に分割することである。モデルの構築とパラメータの調整は訓練用・検証用データのみで行い、最終的な性能評価は、モデルが一度も「見た」ことのないテスト用データで行う。
これにより、モデルが未知のデータに対して真の予測能力(汎化性能)を持つかを客観的に評価できる 54。その他、モデルの複雑さにペナルティを課す正則化や、複数のモデルの予測を統合するアンサンブル学習といった手法も、オーバーフィッティングを抑制する上で有効である 52。
4.3 プライバシーと倫理的配慮
オルタナティブデータの活用、特に個人の活動に由来するデータ(位置情報、決済情報、ウェブ閲覧履歴など)の利用は、深刻なプライバシーおよび倫理的な問題を引き起こす可能性がある。
法的な観点からは、これらのデータの取り扱いは、日本の個人情報保護法(APPI)やEUの一般データ保護規則(GDPR)といった、世界各国の厳格なプライバシー規制に完全に準拠する必要がある 2。特に、個人を直接的または間接的に特定できる情報(Personally Identifiable Information, PII)の取り扱いは、極めて高いコンプライアンスリスクを伴い、ひとたび違反が発覚すれば、巨額の罰金や事業停止命令に繋がる可能性がある 56。
しかし、問題は単に合法であるか否かに留まらない。たとえ法的に許容される範囲内であっても、倫理的に許容されるとは限らない 58。消費者が自身のデータが、自らの知らないところで投資判断に利用されているという事実に不快感や不信感を抱く可能性は高い。また、オルタナティブデータを用いた与信スコアリングなどが、特定の社会的・経済的属性を持つ人々に対して意図せずして差別的な結果をもたらし、金融包摂を妨げるリスクも指摘されている 59。
長期的な視点に立てば、持続可能なアルファの創出は、堅牢な倫理的・プライバシーガバナンスと不可分である。規制当局の監視は年々強化されており 2、データプライバシーに対する社会的な意識も高まっている 61。重大なデータ漏洩や個人データの不正利用といったスキャンダルは、企業の評判を地に落とし、データソースへのアクセス権を永久に失わせるなど、事業の根幹を揺るがしかねない 61。
したがって、データの取得元や利用目的の透明性を確保し、モデルの公平性を担保し(XAIの活用が鍵となる)、プライバシー保護を最優先する倫理的フレームワークを構築することは、単なるコンプライアンス上のコストではなく、システミックリスクを管理し、社会からの信頼を勝ち得るための戦略的投資である。最終的に、データを「正しく使う」ことが、データを「利益が出る形で使い続ける」ための唯一の道となるのである。
結論:情報優位性を再定義する
オルタナティブデータの活用は、もはや一部の先進的なヘッジファンドのみが採用する特殊な戦術ではない。それは、情報が価値を生む全ての投資活動において、競争優位性のあり方を根底から再定義する、不可逆的なパラダイムシフトである。伝統的な財務データやチャート分析が過去の記録を語るのに対し、オルタナティブデータは経済活動の現在進行形を映し出し、未来への洞察を提供する。
この新たなフロンティアで真の成功を収めるために必要なのは、単にユニークなデータにアクセスすることではない。持続可能なアルファは、以下の三つの要素が三位一体となって初めて実現される。
- 高度なAI技術: 衛星画像、テキスト、位置情報といった膨大かつ非構造的なデータの中から微かなシグナルを抽出し、GenAIを用いて新たな戦略仮説を自律的に探索し、そしてXAIを用いてその複雑な意思決定プロセスを透明化・管理する、最先端の技術力。
- 深いドメイン知識: 金融市場の非効率性がどこに、なぜ存在するのかを理解し、データが持つ真の経済的な意味合いを正しく解釈できる、金融とテクノロジーの両分野にまたがる深い専門性。
- 厳格な科学的・倫理的規律: オーバーフィッティングという統計的な罠を回避するための厳格な科学的検証プロセスと、プライバシー保護とデータ倫理を遵守する、揺るぎないガバナンス体制。
チャートや財務諸表の向こう側には、これまで観測不可能であった、未だ発掘されていない価値の源泉が広がっている。オルタナティブデータは、その広大な源泉を照らし出す新たな光である。そして、その光を真のアルファへと昇華させるための羅針盤こそが、高度なAI技術と人間の深い知性の戦略的融合に他ならない。情報化時代におけるトレーディングエッジの未来は、この融合を最も巧みに、そして最も倫理的に成し遂げた者の手の中にあるのである。
引用
- A beginner’s guide to alternative data – Neudata, 2025年11月参照 https://www.neudata.co/blog/a-beginners-guide-to-alternative-data
- Alternative Data vs Traditional Data: Which Wins? | ExtractAlpha, 2025年11月参照 https://extractalpha.com/2025/08/11/alternative-data-vs-traditional-data-which-wins/
- www.daiwa.jp, 2025年11月参照 https://www.daiwa.jp/glossary/YST0880.html#:~:text=%CE%B1%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%EF%BC%89%E5%80%A4%20%EF%BC%88%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%B5%E3%81%81%E3%81%A1%EF%BC%89&text=%E6%9C%9F%E5%BE%85%E5%8F%8E%E7%9B%8A%E7%8E%87%E3%81%A8%E4%BA%88%E6%83%B3,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- α(アルファ)値 | 金融・証券用語解説集 | 大和証券, 2025年11月参照 https://www.daiwa.jp/glossary/YST0880.html
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- 総務省|令和6年版 情報通信白書|オルタナティブデータ, 2025年11月参照 https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r06/html/nd217510.html
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- 日本のオルタナティブデータ市場は2033年までに79億4,540万米ドルに達し、35.22%の成長率で拡大すると予測 | IMARC Group – アットプレス, 2025年11月参照 https://www.atpress.ne.jp/news/4066086
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