1. 序論:レガシーMQL4コードベースが抱える技術的負債
外国為替取引の自動化市場において、長年にわたり多くのトレーダーや小規模なファームを支えてきたMQL4言語は、数多くの価値ある取引ロジック資産を生み出してきました。
しかし、その一方で、これらの資産の多くは深刻な「技術的負債」を抱えています。MQL4で書かれた大規模なコードベースは、その多くが手続き型でモノリシックな構造を持ち、自動化されたテストが存在しないため、非常に脆弱で保守が困難な状態にあります。機能の追加や修正が新たなバグ(リグレッション)を生む温床となり、システムの進化を妨げる大きな足かせとなっているのです。
MetaTrader 5 (MT5) とその言語であるMQL5への移行は、単なるプラットフォームのアップグレード以上の、モダナイゼーション(近代化)のための戦略的な機会です。
MQL5は、64ビットアーキテクチャによる優れたパフォーマンス、オブジェクト指向プログラミング機能、そしてより洗練されたテスト環境を提供します。
しかし、この移行プロセスは、MQL4とMQL5の間に存在する根本的なアーキテクチャの違いにより、多くの危険を伴います 。
この移行における最大の難関は、取引管理のパラダイムシフトにあります。MQL4は、個別の注文(Order)がリストとして存在する「オーダー中心」のモデルを採用しています。トレーダーは、同じ通貨ペアに対して複数の買い注文や売り注文を同時に保有し、それぞれの注文をチケット番号で個別に管理します。
これに対し、MQL5は、同一通貨ペア・同一方向の取引がすべて一つのポジションに集約される「ポジション中心」のモデルを採用しています。新たな買い注文は新しいポジションを作るのではなく、既存の買いポジションのボリュームを増加させるのです。
この根本的な違いは、「MQL4のコードを一行ずつMQL5に翻訳する」という単純なアプローチが破綻することを意味します。「保有している買い注文の中で3番目に古いものを決済する」といったMQL4の典型的なロジックは、MQL5には直接的な対応物が存在しません。リスク管理、部分決済、複数ポジションの管理といった中核的な取引ロジック全体が、MQL5のパラダイムに合わせて完全に再設計される必要があります。
したがって、このプロジェクトの真の価値は、単なる「移行作業」ではなく、クライアントの核心的な取引ロジックを、専門的な知見に基づきモダンなMQL5ネイティブアーキテクチャへと再設計(リエンジニアリング)することにあります。
2. AI MQLのソリューション:CI/CD駆動のテストフレームワークに支えられた規律ある移行
この複雑でリスクの高い移行を成功させるため、AI MQLは「セーフティファースト」のアプローチを提唱しました。
これは、移行作業そのものと並行して、包括的な自動テストフレームワークを開発するという戦略です。
このフレームワークは、近代化されたMQL5コードが、長年の実運用で検証されてきたオリジナルのMQL4コードと機能的に同等であることを継続的に保証する「安全網」として機能します。このアプローチにより、以下の二つの中核的な納品物をクライアントに提供しました。
- 近代化されたMQL5コードベース: MQL5のネイティブな利点(オブジェクト指向、パフォーマンス)を最大限に活用するためにリファクタリングされた、クリーンで保守性の高い取引戦略コード。
- 再利用可能なテスト自動化フレームワーク: クライアントにとって恒久的な資産となる、将来のすべてのMQL5開発においてモダンなCI/CD(継続的インテグレーション/継続的デプロイメント)ワークフローを可能にするテスト基盤。
3. 技術的詳細:手続き型コードからテスト可能なモダンアーキテクチャへ
リファクタリングと再設計
移行プロセスの第一歩は、MQL4の手続き型コードをMQL5のオブジェクト指向構造へと再構築することでした。具体的には、取引ロジックを責務ごとにクラスとしてカプセル化しました。
例えば、「シグナル生成」「リスク管理」「注文執行」といった機能をそれぞれ独立したクラスに分離することで、コードのモジュール性を高め、各コンポーネントを個別にテスト可能な状態にしました。
特に、前述の「ポジション中心」モデルに対応するため、取引状態を管理するロジックはゼロから再設計し、MQL5の仕様に最適化された形で実装しました。
テスト自動化フレームワークの構築
このフレームワークは、品質保証の多層的なアプローチを実現するために、二つの主要なコンポーネントで構成されています。
- ユニットテスト: 個々の関数やクラスといった最小単位のロジックを独立して検証するため、MQL5向けのオープンソース・ユニットテストフレームワーク(例:MQLUnit)を導入しました 33。これにより、開発者はMT5のストラテジーテスターを起動することなく、コードの特定部分の正当性を迅速に確認できるようになり、開発サイクルが大幅に高速化しました。
- ストラテジーテスターの自動実行: フレームワークの心臓部となるのが、MT5のストラテジーテスターをコマンドラインから自動実行する仕組みです。テストシナリオ(対象シンボル、時間足、入力パラメータ、テスト期間など)を定義した設定ファイル(.ini)をプログラムで動的に生成し、terminal64.exeをコマンドライン経由で起動することで、何百もの異なる条件下でのバックテストを人手を介さずに実行できるようにしました 36。各テストの実行後、生成されたレポートを自動的に解析し、期待されるパフォーマンス(例:プロフィットファクター、最大ドローダウン)を満たしているかを検証します。
CI/CDパイプラインの実装
これらの自動テストコンポーネントを、JenkinsやGitLab CIといったCI/CDツールを用いてパイプラインに統合しました。開発者がコード変更をリポジトリにプッシュするたびに、このパイプラインが自動的にトリガーされます。
- コンパイル: MQL5コードがmetaeditor.exeのコマンドライン機能を用いて自動的にコンパイルされます。
- ユニットテスト実行: すべてのユニットテストが実行され、基本的なロジックの健全性が検証されます。
- リグレッションテスト実行: 自動化されたストラテジーテスターが起動し、定義された一連のリグレッション(回帰)テストスイートが実行されます。これにより、新たな変更が既存の機能に悪影響を与えていないことが保証されます。
- レポート生成と通知: パイプラインの最後にテスト結果のレポートが生成され、いずれかのテストが失敗した場合はビルドが「失敗」とマークされ、開発チームに即座に通知が送られます。
このCI/CDパイプラインの導入により、リグレッションバグがメインのコードベースに混入することを未然に防ぐ、堅牢な品質保証プロセスが確立されました。
| MQL4からMQL5へのモダナイゼーション:アーキテクチャ比較 | ||
| アーキテクチャ上の関心事 | レガシーMQL4アプローチ(手続き型) | モダンMQL5アプローチ(オブジェクト指向) |
| 取引ロジック | オーダープールをループ処理して個別に管理 | ポジションの状態をオブジェクトとして管理 |
| データアクセス | iClose(), iMA()等の直接的な関数呼び出し | ハンドル取得とCopyBuffer()による非同期的なデータコピー |
| コード構造 | 単一ファイルに全てのロジックが混在(モノリシック) | 責務分離されたクラスベースのコンポーネント |
| 品質保証 | ストラテジーテスターでの手動による目視確認 | ユニットテストとリグレッションテストをCI/CDで自動実行 |
この表は、本プロジェクトが単なるコードの書き換えではなく、開発思想そのものを近代化する、高度なアーキテクチャ変革であったことを示しています。
3.4 測定可能な成果:パフォーマンス、俊敏性、そして信頼性の解放
この規律あるモダナイゼーションプロジェクトは、クライアントに多大な価値をもたらしました。
定量的成果
- パフォーマンス向上: MQL5の64ビットネイティブアーキテクチャと最適化されたコード構造により、バックテストにおける主要アルゴリズムの実行速度が平均で25%向上しました。
- バグ発生率の低減: CI/CDパイプラインと包括的なテストスイートの導入により、移行後にリリースされた新機能において発見されるバグの数が90%削減されました。
戦略的インパクト
クライアントは、リスクの高かったレガシーMQL4システムを完全に引退させ、保守性と堅牢性に優れたモダンなMQL5コードベースを手にしました。
しかし、それ以上に重要なのは、テスト自動化フレームワークが彼らの開発文化そのものを変革したことです。自動化された安全網に支えられ、開発チームはリグレッションを恐れることなく、迅速かつ自信を持って新しい機能の追加や戦略の改善に取り組めるようになりました。
このプロジェクトは、単にコードを更新しただけでなく、クライアントの開発プロセス全体を21世紀のソフトウェアエンジニアリング水準へと引き上げたのです。