序論:アルファを刻む時限爆弾
クオンツファイナンスの核心に横たわる目標、すなわち「アルファ」の創出は、本質的に時間とエントロピーとの闘いである。アルファとは、発見されるべき静的な資源ではなく、市場の力によって絶えず侵食される、動的で劣化しやすい優位性である。ひとたび発見されたアルファは、その瞬間から陳腐化への道を歩み始める。この不可逆的なプロセスを、本稿では「アルファの半減期」という概念で捉える。これは、トレーディング戦略がその予測能力を徐々に失っていく現象を的確に表現するメタファーである 1。
この問題提起は、単なる学術的なものではない。プロップトレーディングファームや先進的な金融機関にとって、「戦略の陳腐化」は最も深刻な事業リスクの一つである 2。バックテストで輝かしい成果を示したモデルが、本番環境で期待を裏切るという現実は、技術リーダーが日々直面する課題である。
本稿の論旨は明確である。アルファの減衰は避けられないが、その減衰率(decay rate)は管理可能である。トレーディング戦略の寿命は、その初期のアイデアの独創性のみならず、それを展開・維持するシステムの工学的規律と運用的堅牢性によって決定される。本稿は、技術リーダーがこのようなレジリエントなシステムを構築するための、決定的な技術ガイドとなることを目指すものである。我々は、アルファ減衰の根本原因を理論的に解明し、それに技術的に対抗するための完全なライフサイクル管理、すなわちMLOps(機械学習基盤)フレームワークを提示する。
1. アルファ減衰の物理学:クオンツファイナンスにおける避けられぬエントロピー
クオンツ戦略の有効期間が有限であるという現実は、単なる経験則ではない。それは、市場という複雑な適応システムに内在する、いくつかの根源的な力学の現れである。アルファ減衰のメカニズムを理解することは、それに対抗する戦略を立てる上での第一歩となる。
アルファ減衰の定義と主要因
アルファ減衰(Alpha Decay)とは、投資戦略が時間とともにその有効性を失い、リスク調整後の超過リターン(アルファ)を生み出す能力が低下していく現象を指す 1。これは、過去のデータに対して最適化されたモデルの予測能力が、未来の未知のデータに対して徐々に劣化していくプロセスである。この現象は非定常的(non-stationary)であり、過去のパフォーマンスが将来の収益性を保証しないことの根源的な理由となっている 4。この減衰を引き起こす主要な要因は、相互に作用し合い、複雑な動態を示す。
市場の効率化と戦略の混雑(Market Efficiency and Strategy Crowding)
最も強力な減衰要因は、市場の自己修正メカニズムである。あるトレーディング戦略が市場の非効率性(アノマリー)を捉えて利益を上げ始めると、他の市場参加者も同様の、あるいは同一の戦略を発見・模倣し始める 1。参加者が増えるにつれて、彼らの取引行動そのものが非効率性を裁定し、食い潰していく。この「混雑」現象により、当初存在した予測可能性の源泉は枯渇し、最終的にはアルファはゼロに収束する 5。学術的な研究においても、新規取引から得られるアルファは平均して約12ヶ月で消失することが示唆されている 6。
構造的な市場レジームシフト(Structural Market Regime Shifts)
市場は静的なシステムではない。中央銀行の金融政策の転換、新たな規制の導入、地政学的リスクの顕在化、革新的な金融商品の登場など、市場の「ゲームのルール」そのものを変えてしまう構造変化が常に発生している 1。これらのレジームシフトは、モデルが学習した過去のデータパターンや変数間の関係性を根本的に無効化し、モデルを一夜にして陳腐化させる可能性がある 9。
過剰適合(Overfitting)
特に機械学習モデルにおいて、モデルが過去のデータに過剰に適合(チューニング)され、市場の真のシグナルではなく、単なるノイズを学習してしまうことがある 10。このようなモデルは、バックテストでは極めて高いパフォーマンスを示すが、本番環境では未知のデータに対する汎化能力を欠くため、急速にパフォーマンスが劣化する 1。これは、モデルが市場のダイナミクスを本質的に理解しているのではなく、特定の過去のデータセットを「暗記」しているに過ぎないからである。
情報理論的視点からのアルファ減衰
これらの要因をより深く理解するためには、情報理論的な視点が有効である。トレーディングモデルとは、本質的に市場というノイズの海からシグナルを抽出する情報処理システムと見なすことができる。この観点から見ると、アルファ減衰は市場システムの「エントロピー増大」の現れとして捉えることができる。
まず、有効なトレーディング戦略とは、市場の中に存在する何らかの予測可能なパターン、すなわち情報(低エントロピー状態)を発見し、利用するものである。しかし、複数の市場参加者が同じ戦略を用いてその情報を利用しようとすると、状況は一変する 1。彼らの取引行動そのものが、新たなデータとして市場に供給される。この新たなデータは、元の戦略のロジックによって生成されているため、元のパターンを上書きし、破壊する効果を持つ。
結果として、市場は元のモデルの視点から見れば、よりランダムで予測不可能な状態(高エントロピー状態)へと移行する。つまり、アルファ減衰は、市場が持つ再帰性(reflexivity)—観測し、行動することがシステム自体を変化させるという性質—から生じる創発的な特性なのである。この理解は、我々が直面している問題が、単なる「優位性の喪失」ではなく、「非定常的で自己適応的なシステムをいかにしてモデル化し続けるか」という、より根源的な挑戦であることを示唆している。
2. モデルドリフト:アルファ減衰の技術的根本原因を解剖する
前章で述べた「アルファ減衰」が事業上の「結果」であるならば、その技術的な「原因」は「モデルドリフト」という現象に集約される 11。クオンツや機械学習エンジニアにとって、この技術的な根本原因を正確に理解し、分類することは、効果的な対策を講じるための不可欠な前提条件である。
モデルドリフトの定義
モデルドリフト(Model Drift)、あるいはモデルの陳腐化(Model Decay)とは、本番環境におけるデータの統計的特性が、モデルの学習時に使用されたデータから乖離することにより、モデルの予測パフォーマンスが時間とともに低下する現象を指す 11。このドリフトは、主に二つの異なる、しかし相互に関連する形態で現れる。
データドリフト(共変量シフト)- Data Drift (Covariate Shift)
データドリフトは、モデルの入力変数(特徴量)の分布、すなわち$P(X)$が変化する状況を指す [12, 14, 15]。この場合、入力と出力の間の根本的な関係性$P(Y|X)$は不変であると仮定される。しかし、モデルは学習データには存在しなかった、あるいは稀であった新しいパターンのデータに直面するため、その汎化性能が試されることになる。
- 金融における具体例: あるボラティリティ予測モデルが、長期間続いた低ボラティリティの市場環境で学習されたとする。その後、市場が突如として金融危機に見舞われ、極めて高いボラティリティを示すデータが入力され始めた場合、モデルの予測精度は著しく低下する可能性がある。これは、モデルが未知の入力データ分布に遭遇した典型的なデータドリフトの例である。
コンセプトドリフト – Concept Drift
コンセプトドリフトは、より深刻かつ検知が困難な形態のドリフトであり、入力変数と目的変数の間の根本的な関係性、すなわち条件付き確率$P(Y|X)$そのものが変化してしまう状況を指す [12, 14, 15, 16]。これは、市場の「ゲームのルール」自体が変わってしまったことを意味する。モデルが学習したパターンはもはや有効ではなく、同じ入力$X$に対して、期待される出力$Y$が以前とは異なってしまう。
- 金融における具体例: 前章で述べた「戦略の混雑」は、コンセプトドリフトの典型例である。例えば、ある移動平均線のクロスオーバーが、かつては価格上昇の強力な先行指標であったとする(特定の$X$が特定の$Y$を予測した)。しかし、多くのトレーダーがこのシグナルに基づいて取引を行うようになると、クロスオーバーが発生する直前に価格が上昇しきってしまい、シグナル発生後のリターンは中立、あるいはマイナスに転じる可能性がある 5。この場合、シグナル(入力$X$)の意味そのものが変化してしまったのであり、これは$P(Y|X)$の変化、すなわちコンセプトドリフトに他ならない。
ドリフトの相互作用とカスケード効果
現実の金融市場において、データドリフトとコンセプトドリフトは独立して発生するわけではない。むしろ、これらは相互に作用し、悪循環を形成することが多い。一つの外部イベントがコンセプトドリフトを引き起こし、それが市場参加者の行動変容を促し、結果として新たなデータドリフトを生み出すというカスケード効果が発生しうる。
この連鎖反応を考えてみよう。
- 中央銀行が市場の予想に反して大幅な利上げを発表する。これは外部からのショックであり、債券利回りと株式価格の間の伝統的な相関関係を破壊する可能性がある。これは、多くのマクロ経済モデルにとってのコンセプトドリフトの源泉となる 3。
- この新しい現実に対応するため、アルゴリズムトレーダーも人間のトレーダーも、その取引行動を変化させる。これによって、市場にはこれまで見られなかった新しい価格変動パターン、異なるボラティリティ・プロファイル、変化した流動性状況が生まれる。
- この新しい市場行動は、価格、出来高、オーダーブックの深さといったミクロな市場データの統計的分布の変化として現れる。他の短期的な予測モデル(例えば、マーケットメイキング戦略)から見れば、これは入力データの分布変化、すなわちデータドリフトに他ならない。
このように、単一のマクロ経済イベントが、エコシステム全体にわたってドリフトの連鎖を引き起こす可能性がある。したがって、堅牢な監視システムは、単にドリフトの存在を統計的に検知するだけでなく、その種類(データドリフトかコンセプトドリフトか)を区別し、根本原因を分析する能力を持つ必要がある。なぜなら、適切な対応策はドリフトの種類によって大きく異なるからである。単純な再学習で対応可能なのか、それともモデルの根本的な再設計が必要なのか、その判断こそが、変化する市場環境で生き残るための鍵となる。
3. MLOpsという「盾」:AIという「矛」を守るためのサイト信頼性工学
アルファ減衰とモデルドリフトという避けられない脅威に直面したとき、クオンツ組織に問われるのは、単に優れたモデルを「開発」する能力だけではない。むしろ、そのモデルの価値を本番環境で「維持」し続けるための、体系的なエンジニアリング能力である。ここで登場するのが、MLOps(機械学習基盤)という規律である。
「矛と盾」モデル:攻撃と防御の統合
我々の事業戦略の中核には、「矛と盾」というアナロジーが存在する 2。
- 「矛」(ほこ): 顧客に特有の競争優位性(アルファ)をもたらすためにオーダーメイドで設計された、高インパクトなAI/MLモデル。これは、市場から利益を獲得するための攻撃的な戦略兵器である。
- 「盾」(たて): この高価で脆弱な「矛」への投資を保護し、その性能を維持するための必須の防御システム。これこそが、MLOpsフレームワークと、それが提供する継続的なSRE(サイト信頼性エンジニアリング)サービスに他ならない。
この「矛と盾」の概念は、AIトレーディング戦略のライフサイクル全体を捉えるための強力なメンタルモデルを提供する。優れた「矛」を開発することは挑戦の半分に過ぎない。その「矛」が市場との接触によって絶えず摩耗し、やがては折れてしまう(陳腐化する)ことを前提とし、それを継続的に研ぎ澄まし、修復し、時には作り変えるための体系的な「盾」を構築することこそが、持続的な成功の鍵である。
MLOps:AIモデルのためのサイト信頼性工学(SRE)
MLOpsは、単なる開発効率化のための「ベストプラクティス」の集合体ではない。それは、AIモデルそのものに対するサイト信頼性工学(SRE)の実践と位置づけるべきである。
従来のSREは、ソフトウェアインフラの信頼性、可用性、パフォーマンスを保証するためのエンジニアリング規律である。SREチームは、稼働時間(uptime)、レイテンシー、エラーレートといったサービスレベル目標(SLO)を定義し、その目標を達成するためにシステムを監視、自動化、改善する。
このSREの原則をAIモデルに適用したものが、我々の提唱するMLOpsである。
- 従来のSREのSLO:
- システムの可用性: 99.99%
- APIレスポンスのレイテンシー: < 200ms
- エラーレート: < 0.1%
- AIのためのSRE(MLOps)のSLO:
- 予測精度: リアルタイムの予測精度が、検証セットでのベースラインから5%以上低下しない。
- モデルの鮮度(Staleness): 本番モデルが、最新のデータで再学習されてから30日以上経過しない。
- ドリフトの大きさ: 主要な特徴量やモデル出力のPSI(人口安定性指数)が0.25を超えない。
この視点に立つと、PSIやコルモゴロフ–スミルノフ検定といった統計的ドリフト指標は、もはや単なる分析ツールではない。それらは、モデルの「健康状態」を測定するための、レイテンシーやエラーレートに相当する本番環境のメトリクスとなる。
リスク管理としてのMLOps
この文脈において、包括的なMLOpsパイプラインなしにAIトレーディング戦略を本番投入する行為は、極めて無謀な運用上の過失と見なされるべきである。それは、ミッションクリティカルなサーバーを監視ツールなしで稼働させたり、重要なデータベースのバックアップを取らなかったりするのと同等の行為である。モデルドリフトによる予期せぬパフォーマンスの低下は、直接的な金銭的損失につながる、定量化可能な金融リスクに他ならない 13。
このリスク管理の視点は、我々のターゲット顧客であるプロップファームや専門FinTech企業のリーダーが持つ、リスク回避的な側面に強く訴えかけるものである 2。彼らは、リターンだけでなく、そのリターンの安定性と信頼性を重視する。堅牢なMLOpsは、まさにその信頼性を提供する技術的な基盤なのである。
MLOpsをSREとして捉えることは、クオンツチームの組織構造と文化にも変革を促す。それは、純粋な研究志向の「モデル開発」文化から、研究と本番環境のエンジニアリングが融合したハイブリッドな文化への移行を要求する。従来の「研究→バックテスト→デプロイ→(成功を祈る)」という直線的なワークフローは、「研究→開発→テスト→デプロイ→監視→ドリフト分析→再学習/再開発のトリガー→繰り返し」という、協調的かつ循環的なプロセスに取って代わられる 17。この変革には、MLエンジニアやMLOpsエンジニアといった新しい役割と、クオンツリサーチャー自身の新しい責任が伴う。成功の指標は、もはやバックテストのシャープレシオだけではない。ドリフト指標や適応速度によって測定される、本番環境におけるアルファ・ストリームの「稼働時間」と「信頼性」こそが、真のKPIとなる。MLOpsは技術スタックであると同時に、研究と運用の間の溝—多くのクオンツ組織にとって最大の失敗点—を埋めるための、組織的・文化的変革なのである。
4. 本番環境におけるドリフト検知:クオンツのためのMLOpsツールキット
理論的な理解を実践的な能力へと昇華させるためには、具体的なツールとアーキテクチャについての深い知識が不可欠である。本章では、モデルドリフトを検知し、それに対抗するためのMLOpsパイプラインの構成要素を、技術的な詳細に踏み込んで解説する。
4.1. 再現性の基盤:データ、コード、モデルのバージョン管理
いかなる分析も、いかなるインシデント対応も、厳格なバージョン管理なしには信頼性を確保できない。これは、あらゆるプロフェッショナルなエンジニアリング実践の礎である。ドリフトを正確に評価するためには、「何」が「いつ」のデータと比較してドリフトしたのかを、ビットレベルで再現できる能力が不可欠である。
- コードのバージョン管理(例:Git): これは業界標準であるが、特にクオンツの文脈では、特徴量エンジニアリングのロジック、モデルのアーキテクチャ、そして学習パイプライン自体のコードの変遷を追跡するために極めて重要である 20。
- データのバージョン管理(例:DVC, LakeFS): 学習の再現性を保証するための核心的要素である。特定のモデルバージョンを学習させた「正確な」データセットを完全に再現できなければ、パフォーマンス低下の根本原因を特定することは不可能に近い 18。
- モデルのバージョン管理(例:MLflow Model Registry): 学習済みモデルの成果物、そのハイパーパラメータ、関連するパフォーマンスメトリクスを一元的に保存、バージョン管理、追跡するためのリポジトリである。これにより、問題発生時の安全なロールバックや、規制当局への明確な監査証跡の提供が可能となる 18。
4.2. 適応性の心臓部:継続的トレーニング(CT)パイプライン
継続的トレーニング(CT)は、戦略が変化し続ける市場に適応するための、自動化された心臓部である。これは、監視システムによって検知されたドリフトに対する能動的な応答メカニズムを提供する 19。
- 再学習のトリガー: モデルの再学習は、単に固定されたスケジュール(例:毎週月曜日)で行うべきではない。それは非効率的であり、市場の急変に対応できない。理想的なCTパイプラインは、監視システムからのイベントによってトリガーされる。例えば、主要な特徴量のPSIが事前に定義された閾値を超えた場合や、モデルの予測精度が許容範囲を下回った場合に、自動的に再学習プロセスが起動されるべきである 9。
- 再学習戦略: ドリフトの性質に応じて、異なる再学習戦略が求められる。突然のレジームシフト(コンセプトドリフト)が検知された場合は、古いデータを破棄し、新しいデータのみで学習することが有効かもしれない。一方、緩やかなデータドリフトの場合は、最近のデータに高い重みを与えつつ、過去のデータも利用するスライディングウィンドウ方式が堅牢性を高めることがある 13。
- 自動化された検証とデプロイ: 新たに再学習されたモデルは、自動的に一連の検証テストをパスしなければならない。これには、ホールドアウトされた最新のデータセット上で、現行の本番モデル(インカンベント)と新モデル(チャレンジャー)のパフォーマンスを比較するプロセスが含まれる。チャレンジャーがインカンベントを有意に上回った場合にのみ、自動的に本番環境へとデプロイされる(モデルのためのCI/CD)18。
4.3. 戦略の監視塔:高度な継続的モニタリング(CM)
継続的モニタリング(CM)は、MLOpsフレームワークにおける戦略的な監視塔である。クオンツトレーディングの文脈では、一般的なML監視ツールはしばしば不十分である。なぜなら、それらは本質的に事後的(リアクティブ)であり、金融市場が必要とする粒度と即時性を欠いているからである 25。求められるのは、金融上の損失が発生する「前」に、重要なデータセグメントにおける微細な異常の兆候を捉える、専門的かつ能動的(プロアクティブ)な監視システムである。以下に、その中核をなす統計的ドリフト検知アルゴリズムを詳述する。
コルモゴロフ–スミルノフ検定(Kolmogorov-Smirnov Test – KS Test)
- メカニズム: 2標本KS検定は、二つのデータセット(例:学習データと本番データ)が同じ分布から得られたものであるか否かを評価するためのノンパラメトリック検定である。この検定は、両データセットの経験累積分布関数(ECDF)を比較し、二つのECDF間の最大垂直距離をKS統計量として算出する。この統計量が大きいほど、またp値が小さいほど、二つの分布が異なる(すなわち、ドリフトが発生している)という証拠が強いと判断される 26。
- 金融におけるユースケース: 価格リターンやボラティリティ指標など、連続的な値を取る特徴量の分布変化を検知するのに特に適している。ノンパラメトリックであるため、データの分布形状に関する仮定を必要としない点が強みである。
人口安定性指数(Population Stability Index – PSI)
- メカニズム: PSIは、二つの分布間の差異を定量化するために、特にリスク管理の分野で広く用いられてきた指標である。データを複数のビン(階級)に分割し、各ビンに含まれるデータの割合を二つのデータセット間で比較する。PSIの計算式は、
で与えられる。ここで、%Actualは現在のデータ(例:本番データ)の割合、%Expectedは基準となるデータ(例:学習データ)の割合である 30。
- 金融におけるユースケース: モデルの予測スコアの分布を監視するのに極めて有効である。予測スコアの分布が学習時と大きく異なってきた場合、モデルの挙動が変化している強力な兆候となる。また、カテゴリカル変数や、ビン化された連続変数のドリフト監視にも適している。一般的に、以下の閾値が解釈の目安として用いられる 31。

適応的ウィンドウイング(ADWIN – Adaptive Windowing)
- メカニズム: ADWINは、特にストリーミングデータのために設計されたコンセプトドリフト検知アルゴリズムである。このアルゴリズムは、固定長のウィンドウではなく、動的にサイズが変化する可変長のウィンドウを維持する。ウィンドウ内のデータを統計的に均質であると見なせる限りウィンドウを拡大し、統計的な変化(ドリフト)が検知されると、古いデータを含む部分を破棄してウィンドウを縮小する。ドリフトの検知は、ウィンドウを二つのサブウィンドウに分割し、それらの平均値に有意な差があるか否かを統計的に検定することによって行われる 34。
- 金融におけるユースケース: 高頻度取引(HFT)のデータストリームなど、市場環境が秒単位、あるいはそれ以下で変化するような状況に最適である。ADWINは、比較対象とするウィンドウのサイズを手動で設定する必要がなく、変化の速度に応じて自動的にウィンドウサイズを調整するため、突発的なドリフトと緩やかなドリフトの両方に対して堅牢である。
ハイブリッド監視アーキテクチャの構築
これらのアルゴリズムの選択は、単なる統計的な問題ではなく、市場の性質に関する仮定を反映したアーキテクチャ上の決定である。PSIのようなバッチ処理ベースの手法のみを用いることは、市場レジームが一定期間安定しているという暗黙の仮定を置くことになる。一方、ADWINのようなストリーミング手法は、市場が常に流動的な状態にあることを前提としている。
真に堅牢なシステムは、これらのアプローチを組み合わせたハイブリッド、あるいは階層的な監視アーキテクチャを採用する。
- 戦術的レイヤー(リアルタイム): オーダーブックの動態など、低レイテンシーが要求されるクリティカルな特徴量に対しては、ADWINのようなストリーミング検知器を実装し、リアルタイムでのアラートを発する。
- 戦略的レイヤー(バッチ): モデルの予測スコアや、より動きの遅いマクロ経済特徴量などに対しては、PSIやKS検定を日次または週次のバッチ処理で実行し、システム全体の健康状態を定期的にチェックする。
この階層的な防御アプローチは、即時的な戦術的アラートと、長期的な戦略的オーバーサイトの両方を提供し、多岐にわたる時間スケールで発生するドリフトに対応する能力をシステムに与える。
| ドリフト検知アルゴリズムの比較 | ||||
| アルゴリズム | 主な用途 | データ型 | 長所 | 短所/考慮事項 |
| コルモゴロフ–スミルノフ検定 (KS-Test) | 連続変数の分布変化検知 | 連続値(単変量) | ノンパラメトリック、統計的に厳密、分布形状の仮定が不要 | 分布の中央付近の変化に敏感だが、裾(テイル)の変化には鈍感な場合がある |
| 人口安定性指数 (PSI) | モデルスコアやカテゴリ変数の分布シフト監視 | ビン化された数値、カテゴリカル | 解釈が直感的、リスク管理分野で広く採用、単一の要約統計量を提供 | ビン化戦略に結果が依存する、ビン内の変化を見逃す可能性がある |
| 適応的ウィンドウイング (ADWIN) | ストリーミングデータのコンセプトドリフト検知 | ストリームデータ(時系列) | ウィンドウサイズが適応的に変化、手動でのパラメータ調整が少ない、数学的に保証されたエラーバウンド | 計算コストが比較的高くなる可能性がある、主に平均値の変化を検知する |
結論:バックテストを超えて:本番環境における信頼性の文化を築く
クオンツファイナンスの世界において、優れたバックテストは、もはや成功の保証ではない。それは、本番環境という、より過酷で、適応的な敵が存在する「本当のゲーム」への参加資格に過ぎない。
本稿で詳述してきたように、持続可能なアルファは、静的で独創的なモデルから生まれるのではない。それは、モデルを生き物として扱い、適応できなければ死ぬというダーウィニズム的な現実を受け入れた、動的なシステムから創発される特性である。アルファの半減期を遅らせ、戦略の寿命を延ばす唯一の方法は、この適応プロセスを工学的な規律としてシステムに組み込むことである。
AIモデルのためのSREとして再定義されたMLOpsは、まさにそのためのエンジニアリング規律であり、それを支える文化である。それは、データ、コード、モデルの厳格なバージョン管理による再現性の確保から、ドリフトを検知する高度な監視システム、そして検知された変化に自動的に対応する継続的トレーニングパイプラインに至る、完全なフィードバックループを構築する。
このアプローチは、単なる技術的な選択ではない。それは、研究と本番運用を分断するのではなく、一体のものとして捉えるという組織的なコミットメントである。それは、クオンツリサーチャーがバックテストの結果だけでなく、本番モデルの信頼性にも責任を持つという文化の醸成を意味する。
AI MQLは、この理論と実践の間のギャップを埋めるための専門知識を提供する。我々は、単に革新的な「矛」を開発するだけでなく、その価値を永続させるための堅牢な「盾」を構築するパートナーとして、現代のクオンツ環境で成功を目指す組織を支援する。バックテストの先にある、本番環境での真の信頼性を共に築き上げることこそが、我々の使命である 2。
引用
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- The Truth About Automated Forex Strategies: Alpha, Decay, and the Hunt for the Edge, https://medium.com/@turmanauli/the-truth-about-automated-forex-strategies-alpha-decay-and-the-hunt-for-the-edge-d7782f4a3acd
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