序論:FX市場における新たな競争軸としてのレイテンシー
現代の外国為替(FX)市場において、取引インフラはもはや単なるコストセンターではない。それはブローカーの収益性と競争優位性を直接的に左右する、極めて重要な戦略的資産である。この競争環境の変化を理解する上で核となる概念が「レイテンシーアービトラージ」である。これは、市場の公開情報に対する反応速度の差を利用して、高速な取引参加者が低速な参加者から利益を収奪する現象を指す 1。この現象は理論上の脅威に留まらず、低速な市場参加者に課される具体的な経済的損失、すなわち一種の「税金」として実証的に観測されている。
米国経済研究所(NBER)および国際決済銀行(BIS)が発表したワーキングペーパーは、この「レイテンシー税」の深刻さを定量的に明らかにしている。Matteo Aquilina、Eric Budish、Peter O’Neillによる画期的な研究によれば、レイテンシーアービトラージを狙った取引競争は極めて頻繁に(FTSE 100構成銘柄において1シンボルあたり約1分に1回)発生し、その競争時間は5〜10マイクロ秒(100万分の5〜10秒)という驚異的な速さで決着する 1。さらに深刻なのは、この種の取引が市場全体の取引高の約20%を占め、結果として市場参加者に対して約0.5ベーシスポイントの隠れたコスト、すなわち「税金」を課しているという事実である 3。この分析は株式市場を対象としたものであるが、同様のメカニズムが電子化の進むFX市場にも存在することは論理的必然である。
Budish、Cramton、Shim (2015) によって理論化されたように、レイテンシーアービトラージは本質的に、すべての市場参加者が同時に観測可能な公開情報への反応速度の差から生じる 1。この構造は、参加者がわずかでも他者より速くあろうと巨額の投資を続ける、社会的に非効率な「スピード競争(arms race)」を引き起こす 1。この競争において、「1ミリ秒」という時間は抽象的な概念ではない。金融市場リサーチ企業であるTABB Groupの分析によれば、光ファイバーケーブルをデータが伝播する速度を考慮すると、1ミリ秒の遅延は約100マイル(約160km)の物理的な距離に相当する 5。これは、取引インフラの物理的な配置が、ナノ秒単位の競争において決定的な意味を持つことを示唆している。
したがって、低レイテンシーインフラへの投資は、単なる技術的優位性を追求するためのコストではない。それは、日々確実に発生している「レイテンシー税」という定量化可能な損失を直接的に削減し、収益性を最大化するための投資対効果(ROI)の高い戦略的判断なのである。特に、自己の勘定でリスクを管理するB-bookモデルやハイブリッドモデルのブローカーにとって、この税金はスリッページやヘッジングの非効率性として直接的に損益計算書に影響を及ぼす 6。本稿では、この1ミリ秒の価値を最大化するための具体的なインフラ最適化戦略を、規制、プラットフォームアーキテクチャ、物理層、ハードウェア、OS、そしてアプリケーションの各階層にわたって包括的に論じるものである。
第一章:規制が求める「最良執行」とテクノロジーの交点
取引インフラの最適化は、単に技術的優位性を追求し、商業的利益を最大化するためだけのものではない。それは、欧州第二次金融商品市場指令(MiFID II)に代表される現代の金融規制が課す、法的かつ倫理的な義務でもある。規制当局は、ブローカーが顧客の注文を執行する際に「最良執行義務(Best Execution Obligation)」を遵守することを厳格に求めており、低レイテンシーインフラはこの義務を果たすための直接的かつ監査可能な手段となる。
MiFID IIの条文および欧州証券市場監督局(ESMA)が発行する公式文書は、「最良執行」が単に最良の価格を追求するだけでは不十分であることを明確に定義している 7。ブローカーは、顧客にとって最良の結果を得るために「全ての十分な措置(all sufficient steps)」を講じる義務があり、その評価には複数の「執行要因(execution factors)」を総合的に考慮する必要がある 9。ESMAの文書は、これらの要因を具体的に「価格、コスト、執行の迅速性(speed of execution)、執行の確実性(likelihood of execution)、決済の確実性、サイズ、注文の性質」などと列挙している 8。ここで重要なのは、「執行の迅速性」と「執行の確実性」が、価格やコストと並ぶ独立した重要な評価基準として明記されている点である。
この規制要件は、ブローカーのインフラ戦略に深遠な影響を与える。スリッページや約定拒否は、顧客満足度を低下させるだけでなく、「執行の迅速性」と「執行の確実性」を損なう行為として、規制当局による調査の対象となり得る。低レイテンシーインフラへの投資は、これらのネガティブな事象の発生確率を物理的に低減させる。これにより、ブローカーは最良執行義務を遵守しているという具体的かつ技術的な証拠を確保することができる。
さらに、MiFID IIはブローカーに対し、執行品質に関する年次報告書(通称RTS 28レポート)を公表することを義務付けている 10。このレポートでは、上位5社の執行会場(リクイディティプロバイダー等)を公表し、その選定理由と達成された執行品質について詳細な説明が求められる。T. Rowe Priceのような大手金融機関が公表している執行方針レポートを見ても、取引の種類に応じて執行要因の優先順位を動的に変更していることがわかる 11。例えば、流動性の低い金融商品や特定の時間帯の価格(ベンチマーク)を目標とする取引では、「執行の確実性」が価格そのものよりも優先される場合がある 11。このような状況下で、コロケーションや高速ネットワークといった低レイテンシーインフラへの投資は、「執行の確実性」を最大化するために講じた「十分な措置」として、レポート上で明確に主張することが可能である。
このように、最先端の取引インフラは、競争優位性を確保するためのツールであると同時に、規制遵守を証明し、潜在的な顧客との紛争や規制当局からの指摘に対する強力な防御メカニズムとして機能する。インフラ投資は、もはや技術部門だけの課題ではなく、コンプライアンスおよびリスク管理部門を含む経営全体の戦略的課題となっているのである。
第二章:MT5アーキテクチャの特性と潜在的ボトルネックの解明
FXブローカーが直面するパフォーマンスの課題を深く理解するためには、議論の対象を取引プラットフォームそのもの、すなわちMetaTrader 5(MT5)の内部アーキテクチャに移す必要がある。多くのブローカーがMT4からMT5への移行を進める中で、両者の根本的な設計思想の違いを認識することが極めて重要である。MT5は単なるMT4のアップグレード版ではなく、パフォーマンスとスケーラビリティを追求するためにゼロから再設計された、全く異なるアプリケーションである 12。
最も大きな違いは、MT5がネイティブな64ビット・マルチスレッドアプリケーションである点にある 12。これにより、MT5は最新のマルチコアCPUの能力を最大限に活用し、複数の処理を並行して実行することが可能となった。しかし、この高度化は新たなボトルネックを生み出す原因ともなっている。MT5はMT4と比較してリソース消費が格段に激しく、特に複数のチャートを開いたり、最適化を多用する複雑なEA(Expert Advisor)を実行したりする際には、サーバー上で利用可能な全てのCPUスレッドを飽和させる傾向がある 13。
ここで、多くの技術者が見過ごしがちな重要な区別が存在する。それは、「ネットワークレイテンシー」と「計算レイテンシー(computational latency)」の違いである。ネットワークレイテンシーがサーバー間の物理的な通信時間であるのに対し、計算レイテンシーはサーバー内部で注文が処理されるまでの時間である。MT5の内部アーキテクチャには、注文の送信、承認、確認を管理するための「メッセージキューイングシステム」が導入されている 13。このシステムの存在により、ブローカーのサーバーへのネットワークping値が1ミリ秒であっても、注文が即座に処理されるとは限らない。サーバーのCPUが高負荷状態にある場合、注文は内部のキューで待たされ、結果として8〜10ミリ秒もの遅延が発生しうるのである 13。
この計算レイテンシーの問題は、特にリソースを他のユーザーと共有する標準的なVPS(仮想専用サーバー)環境で深刻化する。VPSの仮想化レイヤーで発生するオーバーヘッドや、隣接する仮想マシンとのCPUサイクルの競合は、注文処理時間に容易に10〜15ミリ秒の遅延を追加する可能性がある 13。つまり、MT5環境における真の約定品質は、もはや単純なping値では測定できず、サーバーの計算能力とリソースの専有性が決定的な要因となる。
この傾向は、MT5のプログラミング言語であるMQL5の進化によってさらに加速される。MQL4の手続き型言語から、MQL5ではC++に近い高度なオブジェクト指向言語へと進化し、より複雑で精緻なアルゴリズム取引戦略の実装が可能となった 14。これはトレーダーにとっては大きな利点であるが、ブローカーのサーバーインフラにはより高い処理能力と安定性を要求することを意味する。したがって、MT5時代のブローカーは、ネットワーク速度だけでなく、サーバー内部で発生するマイクロ秒単位の遅延、すなわち計算レイテンシーとジッター(遅延のばらつき)をいかに抑制するかに焦点を当てたインフラ設計へと移行する必要がある。
第三章:物理層の最適化:データセンター選定とコロケーション戦略
取引インフラのパフォーマンスを極限まで高めるための第一歩は、その物理的な基盤、すなわちデータセンターの選定から始まる。FX市場における流動性の大部分は、特定の地理的拠点に集中している。Equinix社のLD4(ロンドン)、NY4(ニューヨーク)、TY3(東京)といったデータセンターは、世界中の主要なリクイディティプロバイダー(LP)、銀行、取引所、ECNがサーバーを設置する金融エコシステムのハブとなっている 12。したがって、ブローカーが自社の取引サーバーをこれらのデータセンター内に物理的に配置する「コロケーション」は、レイテンシー削減における最も効果的な戦略の一つである。
コロケーションの最大の利点は、公衆インターネット網を完全にバイパスできることにある。公衆網を経由した通信は、経路が予測不可能であり、遅延やパケットロス、ジッター(遅延のばらつき)が避けられない。これに対し、コロケーション環境では、ブローカーのサーバーラックとLPのサーバーラックを、データセンター内で光ファイバーケーブルによって直接接続(クロスコネクト)することが可能となる 15。この物理的な直接接続により、両者間の通信レイテンシーは保証されたサブミリ秒レベルまで劇的に短縮され、通信品質は極めて安定する 15。これは、あたかもブローカーのサーバーがLPのサーバーと同一のローカルネットワーク上に存在するかのごとき環境を実現するものである。
データセンターを選定する際、従来のウェブホスティングの常識であった「エンドユーザーへの近接性」は、金融取引においては二次的な考慮事項となる 17。最も重要なのは、「LPエコシステムへの近接性」である 18。トレーダーからブローカーサーバーまでのレイテンシーも重要ではあるが、約定品質に決定的な影響を与えるのは、ブローカーサーバーからLPまでのレイテンシーである。この区間の遅延を最小化することこそが、スリッページを抑制し、約定率を高めるための鍵となる。
さらに、Equinixのようなティア1データセンターは、単なる速度以上の価値を提供する。これらの施設は、99.999%といった極めて高いSLA(サービス品質保証)に基づく稼働率を誇り、N+1以上の冗長化された電源供給システム(UPS、自家発電機)、複数の通信キャリアへの接続、そして厳格な物理的セキュリティ対策を備えている 15。金融取引というミッションクリティカルな業務において、サーバーのダウンタイムは致命的な損失に直結する。コロケーションは、システムの信頼性と耐障害性を最大化し、事業継続性を確保するための投資でもある。
結論として、コロケーションは単なる高速化の手段ではない。それは、不安定な公衆網から隔離された、確定的かつ高性能な金融取引専用の「エコシステム」に参加することを意味する。このエコシステム内でLPや他のテクノロジーパートナーと直接接続することにより、ブローカーはネットワーク管理を簡素化し、セキュリティを向上させ、そして何よりも運用リスクを劇的に低減させることができる。物理層への戦略的投資こそが、他のすべての最適化の礎となるのである。
第四章:ハードウェアの最適化:サーバー選定からBIOSチューニングまで
データセンターという最適な物理的ロケーションを確保した次のステップは、その中で稼働するサーバーハードウェアそのものを最適化することである。MT5プラットフォームのポテンシャルを最大限に引き出すためには、汎用的なウェブサーバーとは一線を画す、低レイテンシー取引に特化したハードウェア選定と構成が不可欠となる。
まず基準となるのは、プラットフォーム開発元であるMetaQuotes社が公式に提示する推奨要件である。これによれば、CPUにはIntel Xeon E3またはE5シリーズ、RAMは32GB以上、そしてストレージには、取引サーバーとヒストリーサーバーの両方でSSDまたはNVMeを使用したRAID-1アレイが推奨されている 20。これは、大量のティックデータを処理し、データベースへの高速な読み書きを要求されるMT5サーバーの負荷を考慮した、堅牢な構成である。
しかし、超低レイテンシーを追求する上では、これらの推奨要件をさらに深掘りする必要がある。
- CPU: コア数も重要だが、MT5のティック処理やEAのロジック計算の一部は、依然として単一スレッドの性能に大きく依存している。そのため、可能な限り高いシングルコアのクロックスピード(例えば3.5 GHz以上)を持つCPUを選定することが、計算レイテンシーの削減に直結する 13。また、MetaQuotesの要件には、CPUがAVX2命令セットをサポートしている必要があると明記されており、これも選定時の必須項目である 20。
- ストレージ: ヒストリーデータの記録やログの書き込み、バックテストの実行など、MT5サーバーは極めてI/O負荷の高い処理を頻繁に行う。SATA接続のSSDも有効だが、PCIeバスに直接接続されるNVMe(Non-Volatile Memory Express)ストレージは、桁違いのI/O性能を提供する。あるテストでは、ストレージをNVMeにアップグレードしただけで、ディスクレイテンシーが30-40%削減され、EAの実行安定性が9ミリ秒向上したという結果も報告されている 13。
- ネットワーク: サーバーには、標準的な1Gbpsのネットワークインターフェースカード(NIC)に加え、10Gbps以上の帯域を持つ、低レイテンシーに特化したNIC(SolarflareやMellanoxなど)の搭載が望ましい。これらは後述するカーネルバイパス技術と組み合わせることで真価を発揮する。
そして、ハードウェア最適化における最も見過ごされがちでありながら、決定的に重要なのがBIOSレベルでのチューニングである。現代のサーバーCPUは、電力効率を最大化するために、負荷に応じて動的にクロックスピードを変動させたり、使用されていないコアを低電力状態(C-state)に移行させたりする省電力機能がデフォルトで有効になっている。これらの機能は、マイクロ秒単位の遅延(ジッター)の温床となる。CPUが低電力状態から復帰する際に生じるわずかな遅延が、取引執行のタイミングを狂わせるのである。MetaQuotesの公式ドキュメントは、低レイテンシーアプリケーション向けに、全ての省電力機能(CPU C-stateを含む)を無効化し、メモリ設定を「High Performance」に構成することを明確に要求している 20。このBIOSレベルでの地道なチューニングこそが、ハードウェアの性能を100%引き出し、安定した低レイテンシー環境を構築するための最後の鍵となる。
以下の表は、目的別に最適化されたMT5サーバーのハードウェア仕様をまとめたものである。
| コンポーネント | 最低要件 | 推奨構成 | 超低レイテンシー構成 |
| CPU | Intel i7 4th Gen Quad Core | Intel Xeon E3, E5 Quad Core | 最新世代 Intel Xeon (高クロック周波数 3.5GHz+) |
| RAM | 16 GB | 32 GB 以上 | 64 GB 以上 (ECC) |
| ストレージ | 2 x 1 TB HDD (RAID-1) | 2 x 1 TB SSD (RAID-1) | 2 x 1 TB NVMe (RAID-1) |
| ネットワーク | 100 Mbps | 1 Gbps | 10 Gbps ULL NIC (Solarflare/Mellanox) |
| OS | Windows Server 2019 Standard | Windows Server 2022 Standard | RHEL/CentOS (低レイテンシーチューニング適用) |
出典: 12
第五章:OSとネットワークスタックの最適化:マイクロ秒を削り出す技術
物理層とハードウェア層の最適化が完了した上で、次に取り組むべきはソフトウェアの最深部、すなわちオペレーティングシステム(OS)とネットワークスタックのチューニングである。ここでは、汎用的なサーバー運用から一歩踏み込み、マイクロ秒単位の遅延を削り出すための高度な技術が要求される。この領域は、従来、高頻度取引(HFT)ファームやクオンツファンドの独壇場であったが、FX市場の競争激化に伴い、ブローカーにとっても必須の知識となりつつある。
HFTファームや大手金融機関のシステムエンジニア向け求人情報を見ると、応募要件として「Linux OSのチューニング」「カーネルバイパス技術」「Solarflare/Mellanoxの経験」といったキーワードが必ずと言っていいほど含まれている 22。これは、これらの技術が超低レイテンシー環境を構築するための業界標準であることを明確に示している。
この最適化の中心となる技術が「カーネルバイパス(Kernel Bypass)」である。通常、ネットワークカードが受信したデータパケットは、OSのカーネルが持つネットワークスタックによって処理された後、アプリケーションに渡される。このプロセスには、CPUのコンテキストスイッチやメモリ空間をまたぐデータコピーが複数回発生し、数マイクロ秒から数十マイクロ秒の遅延が生じる 26。カーネルバイパス技術は、このカーネルの処理を完全に「迂回」し、ネットワークカードからユーザー空間で動作するアプリケーション(この場合はMT5サーバープロセス)へ直接データを送り届ける 26。これにより、OSに起因する遅延とジッターを根本的に排除することが可能となる。
この技術を実装するための代表的なソリューションが、Solarflare社(現在はAMDの一部)の「OpenOnload」や、Mellanox社(現在はNVIDIAの一部)の「VMA (Virtual Messaging Accelerator)」といったライブラリである 22。これらのライブラリは、既存のアプリケーションコードを大幅に変更することなく、透過的にネットワーク性能を向上させることができるため、導入のハードルが比較的低いという利点がある。
カーネルバイパスと並行して行われるのが、Linux OS自体の低レイテンシー向けチューニングである。これには以下のような手法が含まれる。
- CPUアイソレーション/ピニング: 特定のCPUコアをOSの汎用的なタスクスケジューリングから除外し、取引アプリケーション専用に割り当てる。これにより、他のプロセスによる干渉を防ぎ、安定した処理性能を確保する 26。
- 割り込みアフィニティ: ネットワークカードなどからのハードウェア割り込み処理を、特定のCPUコアに集約する。これにより、キャッシュ汚染を防ぎ、他のコアがアプリケーションの処理に専念できるようにする 26。
- 高精度な時刻同期: NTP(Network Time Protocol)よりも高精度なPTP(Precision Time Protocol)を用いて、システム全体の時刻をマイクロ秒以下の精度で同期させる。これは、正確なタイムスタンプの記録や、分散システム間でのイベント順序の保証に不可欠である 23。
Solarflare社が提供するsysjitterのような専門的なツールを用いれば、OSやハードウェアが引き起こす微小な遅延をナノ秒単位で測定し、これらのチューニングがもたらす効果を定量的に評価することも可能である 26。HFTの世界で培われたこれらの高度な最適化技術を適用することこそが、FXブローカーが真の競争力を手にするための次なるフロンティアなのである。
第六章:アプリケーション層の最適化:MT5プラットフォームの負荷軽減策
インフラストラクチャの全階層にわたる最適化の最終段階は、アプリケーション層、すなわちMT5プラットフォームそのものの設定と運用に焦点を当てることである。コロケーション、最高仕様のハードウェア、カーネルバイパスといった数百万ドル規模の投資も、アプリケーション自体の設定が不適切であれば、その効果は大きく損なわれてしまう。約定品質は、インフラの最も弱いリンクによって決定されるため、エンドツーエンドでの最適化が不可欠である。
MT5プラットフォームのパフォーマンス問題は、多くの場合、リソースの過剰消費に起因する 27。非効率なカスタムインジケータやEA、多すぎるチャートの表示、膨大なヒストリカルデータのロードなどがサーバーとクライアントターミナルの両方に負荷をかけ、計算レイテンシーを増大させる。以下に、MT5の負荷を軽減し、リソース消費を最小限に抑えるための具体的なベストプラクティスを挙げる。
- チャートの最大バー数を制限する: MT5のツール > オプション > チャート設定画面には、「ヒストリー内の最大バー数」と「チャートの最大バー数」という項目がある。これらの値をデフォルトの大きな数値から、例えば5000といった必要最小限の値に減らすことで、プラットフォームが消費するメモリ量とCPU負荷を劇的に削減できる。これは最も簡単かつ効果的な最適化手法の一つである 27。
- 不要な通貨ペアを非表示にする: 「気配値表示」ウィンドウには、取引しない通貨ペアも多数表示されている場合がある。これらのシンボルは表示されているだけでサーバーからティックデータを受信し続け、リソースを消費する。ウィンドウ内で右クリックし、「すべて非表示」を選択した後、取引に必要なシンボルだけを個別に表示させることで、不要なデータトラフィックと処理負荷を削減できる 27。
- ニュース機能を無効にする: 経済指標の発表などを知らせるニュース機能は便利だが、バックグラウンドで継続的にデータを取得し、プラットフォームの負荷となる。ツール > オプション > サーバータブから「ニュースを有効にする」のチェックを外すことで、この負荷を排除できる 27。
- その他の不要な機能を無効化する: Eメールアラート、サウンドアラート、Publisher機能など、使用していない機能は積極的に無効化することが推奨される。これらの機能はわずかずつリソースを消費し、積み重なることでパフォーマンスに影響を与える可能性がある 27。
- 定期的なプラットフォームの再起動: メモリリーク(アプリケーションが確保したメモリを解放し忘れること)などにより、長時間稼働させたMT5は徐々にパフォーマンスが低下することがある。可能であれば、1日に1回程度プラットフォームを再起動することで、システムをクリーンな状態に保つことができる 27。
特に注意が必要なのが、EAのバックテストや最適化といった、極めてCPU負荷の高いタスクである。これらの処理は、実行中にサーバーのリソースを使い果たし、ライブ取引の執行に遅延を生じさせたり、最悪の場合はシステムをフリーズさせたりする可能性がある 31。対策として、WindowsのタスクマネージャーでMT5のプロセス(terminal64.exe)の優先度を「通常以下」に下げる、あるいはMT5のストラテジーテスター内で使用するCPUコアの数を一つ減らすといった手法が有効である 31。これにより、システム全体の安定性を保ちながら、負荷の高いタスクを実行することが可能となる。これらの地道なアプリケーションレベルの最適化が、インフラ全体のパフォーマンスを最大限に引き出すための最後のピースとなる。
結論:約定品質を再定義するインフラストラクチャへの投資
本稿で詳述してきたように、現代のFX市場における「優れた約定品質」とは、もはや偶然の産物でも、トレーダーのスキルのみに依存するものでもない。それは、データセンターの物理的配置から、ハードウェアのBIOS設定、OSのカーネルチューニング、そしてアプリケーションの構成に至るまで、テクノロジースタックの全階層にわたる包括的かつ意図的な最適化の直接的な結果なのである。
議論の出発点として、我々はレイテンシーが抽象的な技術用語ではなく、NBERやBISの研究が示すように、市場参加者に日々課される定量化可能な「税金」であることを確認した 3。この認識は、インフラ投資をコストではなく、収益性を直接改善するためのROI主導の戦略的判断へと変える。
さらに、MiFID IIのような国際的な金融規制は、「執行の迅速性」と「執行の確実性」を最良執行義務の重要な構成要素と位置づけることで、低レイテンシーインフラを単なる競争優位性の源泉から、コンプライアンス上の必須要件へと昇華させた 7。堅牢なインフラは、規制当局に対する説明責任を果たすための強力な証拠となる。
プラットフォームの観点からは、MT5の高度なマルチスレッドアーキテクチャと内部メッセージキューイングシステムが、パフォーマンスのボトルネックを単純なネットワーク速度から、サーバー内部の「計算レイテンシー」と「ジッター」へとシフトさせたことを明らかにした 13。これは、ブローカーが約定品質を評価し、改善するためのアプローチを根本的に見直す必要があることを示唆している。
究極のパフォーマンスは、これらの課題に対する断片的な対応では達成できない。それは、
- 物理層: Equinix LD4やNY4といった金融エコシステムのハブでのコロケーション。
- ハードウェア層: 高クロックCPUの選定と、C-state無効化などの徹底したBIOSチューニング。
- OS/ネットワーク層: カーネルバイパス技術を駆使した、OSオーバーヘッドの完全な排除。
- アプリケーション層: MT5プラットフォーム自体の負荷を最小限に抑えるための運用ベストプラクティス。
これら全ての要素が連動して初めて、1ミリ秒の価値を最大限に引き出すことが可能となる。この多岐にわたる専門知識と実装能力は、多くのFXブローカーが社内リソースのみで対応するには困難な領域である。テクノロジー先進型のブローカーが次世代の競争で勝ち抜くためには、自社のインフラを戦略的資産として再評価し、AI MQL合同会社のような、この複雑な領域をナビゲートできる専門的パートナーとの協業が不可欠となるであろう。インフラへの投資は、未来の約定品質を定義し、顧客からの信頼を勝ち得るための最も確実な道筋なのである。
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