SRE/インフラプロジェクト

1. 序論:プロップトレーディングにおけるインフラの重要性

プロップトレーディングファームの世界では、ITインフラは単なる経費ではなく、収益性を直接左右する生産設備そのものです。ミリ秒単位のレイテンシーの差が、裁定取引機会を捉えるか逃すかの分水嶺となり得ます 。

同様に、重要な経済指標の発表時といった市場の關鍵局面におけるシステムのダウンタイムは、機会損失という形で直接的かつ定量的な損害につながります。

本プロジェクトのクライアントは、成功裏に事業を拡大してきたプロップファームでしたが、その成長に伴うインフラ上の課題に直面していました。

彼らのシステムは、個別に契約された複数の海外VPSで構成されており、ネットワーク性能は一貫性を欠き、障害対応は常に事後的な「火消し」作業に終始していました。

このインフラの不安定さは、システムに対する信頼の欠如を生み、より積極的で大規模な資金を投下する戦略の展開を躊躇させる要因となっていました。

この状況において、インフラの信頼性向上は、単なる技術的な安定化以上の意味を持ちます。それは、ビジネスリスクの根源的な低減を意味します。

プラットフォームが不安定であることは、市場リスクとは別の、予測不能な「オペレーショナルリスク」を組織にもたらします。例えば、市場の急変動時にポジションを決済できないリスクは、トレーディングファームにとって許容しがたいものです。このような不確実性は、ファームが許容できるリスク量(すなわち、ポジションサイズやレバレッジ)を抑制させ、結果として収益機会を制限します。

したがって、SRE(Site Reliability Engineering)を導入し、証明可能で信頼性の高いプラットフォームを構築することは、このオペレーショナルリスクを取り除く行為に他なりません。

それは、クライアントが自信を持ってより多くの資本を市場に投下し、収益性を最大化するための基盤を築くことを意味します。この観点から、本プロジェクトはAI MQLが提供する「盾(Shield)」、すなわち顧客の貴重な取引戦略という「矛」の価値を保護し、増幅させるための必須サービスとして位置づけられます。

2. AI MQLのソリューション:ピークパフォーマンスと信頼性のためのプロアクティブSREフレームワーク

我々が提案・実行したのは、単なるサーバーのアップグレードや移設ではありません。

それは、インフラと運用に関する問題に対してソフトウェアエンジニアリングのアプローチを適用し、スケーラブルで極めて信頼性の高いシステムを構築することを目的とする、包括的なSRE(サイト信頼性エンジニアリング)フレームワークの導入です 。この変革は、以下の三つの柱を中核として進められました。

  1. 低遅延インフラの最適化: 取引執行パスのあらゆる段階でレイテンシーを最小化するための、多層的な技術的アプローチ。
  2. 包括的なオブザーバビリティ(可観測性)の確立: 単純な死活監視を超え、システムのパフォーマンスと内部状態をリアルタイムで深く洞察する能力の構築。
  3. 体系的なインシデント管理: システム障害への対応、解決、そしてそこからの学習というサイクルを、明確で再現可能なプロセスとして確立すること。

3. 技術的詳細:稼働率と速度を最大化するアーキテクチャ

多層的なレイテンシー最適化

レイテンシーは単一の原因で発生するのではなく、複数の要因が積み重なった結果です。我々は、エンドツーエンドでの遅延を削減するため、以下の各層で最適化を実施しました。

  • 物理・ネットワーク層: 最大の遅延要因である「伝送遅延」に対処するため、クライアントの取引サーバー群を、主要なリクイディティプロバイダー(LP)や取引所のマッチングエンジンが設置されているデータセンター(例:ロンドン(LD4)、ニューヨーク(NY4))へ物理的に近接させるコロケーションを実施しました。さらに、ネットワーク分析ツールを用いてデータパケットの経路を可視化し、不要なルーターを経由しない最も直接的なルートを選択することで、「ネットワークホップ」数を最小限に抑えました。
  • ハードウェア・OS層: 「計算遅延」を削減するため、サーバーには高クロック周波数のCPUと高性能なネットワークインターフェースカード(NIC)を選定しました。OSレベルでは、Linuxカーネルのパラメータをチューニングし、ネットワークスタックのバッファサイズ調整や、特定のCPUコアにネットワーク割り込み処理を割り当てる(Interrupt Affinity)ことで、パケット処理のオーバーヘッドを極限まで削減しました。

オブザーバビリティスタック:PrometheusとGrafana

「何かがおかしい」という漠然とした状態から、「CPU負荷ではなく、特定のマイクロサービスの応答時間が50msを超えている」という具体的な洞察を得るために、モダンなオブザーバビリティスタックを導入しました。

  • Prometheus: サーバー、アプリケーション、ネットワーク機器など、システムを構成するあらゆるコンポーネントから時系列メトリクスを収集するための業界標準オープンソースツールです 。CPU使用率やメモリ使用量といった基本的なメトリクスに加え、取引アプリケーションからカスタムメトリクス(例:ティック受信から注文発出までの時間)を公開させ、収集対象としました。
  • Grafana: Prometheusが収集した膨大なメトリクスを可視化し、直感的なダッシュボードを構築するためのツールです。我々は、トレーダーとエンジニアが共通の言語でシステムの健全性を議論できるよう、取引オペレーションに特化したダッシュボードを作成しました。これには、リアルタイムのティック対取引レイテンシー、注文執行成功率、システムリソースの飽和度などが表示され、問題の予兆を早期に発見することを可能にします。

信頼性のシステム化:インシデント管理とポストモーテム

システムの信頼性を継続的に向上させるためには、障害から学ぶ文化とプロセスが不可欠です。

  • インシデント対応計画: 障害の深刻度に応じた対応レベル(Severity Levels)、オンコール担当者のローテーション、そして関係者への明確なコミュニケーション手順を定義した、正式なインシデント対応計画を策定しました。
  • 非難なきポストモーテム(Blameless Post-mortem): 重大なインシデントが発生した場合、その根本原因を特定し、再発防止のための具体的なアクションプランを策定するための「非難なきポストモーテム」を導入しました。このプロセスでは、「誰が」ミスを犯したかではなく、「なぜ」システムがそのように振る舞うことを許したのかを問い、プロセスや自動化の改善に繋げます。これは、継続的な改善を駆動する文化的なエンジンとなります。
    このプロセスの最終的な目標は、SREにおける最重要指標の一つである平均修復時間(Mean Time To Repair, MTTR)を体系的に短縮することです。
SRE導入による信頼性指標の変化
指標導入前AI MQLによる導入後ビジネスインパクト
システム稼働率 (SLA)99.5%99.99%計画外ダウンタイムによる機会損失の撲滅
平均修復時間 (MTTR)2時間以上15分未満障害発生時のビジネス影響を最小化
重要市場時間帯のインシデント数月平均 3-5件月平均 0-1件市場の最重要局面における取引能力の保証
ティック対取引レイテンシー50-150ms (不安定)10ms未満 (安定)レイテンシーに敏感な戦略の実行可能性向上

2.4 測定可能な成果:エリートレベルのシステム安定性の達成

本プロジェクトは、クライアントのトレーディングインフラを根本から変革し、測定可能な成果をもたらしました。

定量的成果

  • システム稼働率: プロアクティブな監視と迅速な障害対応により、持続的に99.99%のシステム稼働率を達成しました。これにより、計画外のダウンタイムはビジネスリスク要因から実質的に排除されました。
  • MTTRの劇的な短縮: 体系化されたインシデント対応プロセスと高度なオブザーバビリティにより、重大なインシデント発生時の平均修復時間(MTTR)を、従来の2時間以上から15分未満へと劇的に短縮しました。

戦略的インパクト

このプロジェクトが提供したのは、単に安定したサーバーではありません。

それは、信頼性が高く、性能が予測可能で、かつ継続的に改善されるトレーディングプラットフォームそのものです。この新たに得られたインフラへの信頼は、クライアントが自動化戦略への資金配分を増やし、これまでリスクが高いと判断していたレイテンシーに敏感な新戦略を積極的に探求することを可能にしました。

導入されたSREフレームワークは、オペレーショナルエクセレンスの文化を組織に根付かせ、将来の事業成長に合わせてプラットフォームの信頼性がスケールアップしていくための強固な基盤を構築しました。

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