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特徴量エンジニアリングの彼方へ 深層学習による金融市場の潜在的アルファの発見

序論:アルファ探求の終わらない軍拡競争

定量的ファイナンスの世界は、絶え間ない技術革新と熾烈な競争によって定義される「軍拡競争」の様相を呈している。この競争の聖杯は「アルファ」、すなわち市場平均を上回る超過収益の創出である。しかし、いかに精緻な理論と技術を駆使して構築された戦略であっても、その有効性は時間とともに必然的に薄れていく。この現象、すなわち「戦略の陳腐化」は、プロップトレーディングファームをはじめとする市場参加者が直面する根源的かつ最も深刻な課題である 1

この陳腐化の根底には、市場の自己組織化と効率化の力学が存在する。ある有効なシグナル(アルファの源泉)が発見され、利用されると、そのシグナルを捉えようとする他の参加者の行動によって市場構造が変化し、結果としてシグナルの予測力は減衰する。かつては数年単位で有効であった戦略の「半減期」は、情報伝達速度の向上と計算能力の飛躍的な増大により、今日では数ヶ月、あるいは数週間にまで短縮されている。

この終わりのない戦いの最前線に長らく存在してきたのが、「特徴量エンジニアリング」という職人技であった。クオンツアナリストは、経済学的な洞察力、数学的な洗練性、そして市場に対する深い直感を頼りに、価格、出来高、オーダーブックといった生のデータから、未来を予測するための変数、すなわち「特徴量」を丹念に作り上げてきた。移動平均線のクロスオーバーから、より複雑な統計的指標に至るまで、これらの手作業による特徴量は、アルゴリズム取引の基盤を形成してきた。

しかし、この伝統的なアプローチは、今や限界に達しつつある。人間の認知能力には限りがあり、その発見は既存の経済理論の枠組みに制約される。さらに、広く知られた特徴量は、瞬く間にその価値を失う運命にある 2。市場の複雑性が増大し、データの次元が爆発的に増加する現代において、手作業による特徴量の探求は、収穫逓減の法則から逃れることができない。

この膠着状態を打破する可能性を秘めた技術として、深層学習(ディープラーニング)が登場した。深層学習は、人間の直感や既存の理論に依存することなく、データそのものから階層的かつ非線形なパターンを自動的に抽出し、これまで誰も気づかなかった「潜在的アルファ」を発見する能力を持つ。これは、アルファ探求におけるパラダイムシフトであり、強力無比な「矛」を手に入れることに等しい。

だが、この新たな矛は、それ自体が新たな脆弱性を内包している。バックテストでどれほど輝かしい成果を上げたモデルであっても、ひとたび本番の市場という混沌とした環境に投入されれば、その性能は予測不能な形で劣化し始める。静的な過去のデータ上で検証されたモデルの有効性は、動的に変化し続ける市場の現実の前では、脆くも崩れ去る幻想に過ぎない。

本稿の目的は、この新たな挑戦に対する包括的な戦略を提示することにある。我々は、深層学習という強力な「矛」を詳述するだけでなく、その矛を本番環境の過酷さから守り、持続的な価値を創出するための本質的な「盾」、すなわちMLOps(機械学習基盤)の重要性を論じる。もはや、持続可能なアルファの源泉は、単一の優れたモデルからもたらされるのではない。それは、発見と運用の両輪を高度に統合した、産業レベルのシステム全体の優位性から生まれるのである。アルファ探求の戦場は、個々の戦略の優劣を競う段階から、その発見、展開、維持、そして更新のプロセス全体を工業化する能力を競う、より高次の次元へと移行したのである。

第一部:特徴量エンジニアリングの限界と深層学習という「矛」

アルファ創出の伝統的なアプローチは、人間の専門知識を核とする特徴量エンジニアリングに深く根差してきた。しかし、その手法には構造的な限界が存在し、現代の金融市場の複雑性に対応しきれなくなりつつある。このセクションでは、まず伝統的手法の黄昏を概観し、次にその限界を突破する深層学習の能力を、アルファ探求の新たな「矛」として技術的に解説する。

伝統的手法の黄昏

「クオンツ・ファイナンスにおいて、秘密はアルゴリズムではなく、それに何を『食べさせるか』である」という格言は、長らくこの分野の真理とされてきた 4。この言葉が示す通り、モデルの性能は入力される特徴量の質に大きく依存する。しかし、その特徴量を生み出すプロセス自体が、深刻な制約に直面している。

第一に、手作業による特徴量エンジニアリングは、根本的に人間の認知と経済理論の枠組みに縛られる。アナリストは、モメンタム、ミーンリバージョン、バリューといった経済学的仮説に基づいて特徴量を設計する 4。このアプローチは解釈可能性が高いという利点を持つ一方で、人間の先入観や既存の知識の範囲を超えるような、未知の複雑な関係性を捉えることができない。市場は、常に経済学の教科書通りに動くわけではない。

第二に、金融データ特有の低いシグナル対ノイズ比(Signal-to-Noise Ratio)の問題がある。膨大なノイズの中から真のシグナルを見つけ出す過程は、データスヌーピング・バイアス(データマイニング・バイアス)の罠と隣り合わせである。研究者は無意識のうちに、特定の過去データに過剰適合(オーバーフィッティング)した特徴量を作り出してしまうリスクに常に晒されている。厳密なアウト・オブ・サンプル検証を経なければ、バックテストで有望に見えた特徴量の多くが、実運用では全く機能しないという結果に終わる 4

第三に、そして最も致命的なのが、アルファの減衰である。ある特徴量の有効性が広く知られるようになると、多くの市場参加者がそれを利用しようと試みる。その結果、市場はその特徴量を織り込み、最終的には完全に裁定され尽くされ(arbed out completely)、超過収益を生み出す源泉としての価値を失う 3。遺伝的プログラミングのような高度な自動化手法を用いても、生成される特徴量の多くは既存のものと大差なく、真に新しい情報を付加することは困難であるとの報告もある 2

第四に、市場の非定常性(Non-stationarity)への対応の難しさがある。ある市場レジーム(例えば、低金利・低ボラティリティ環境)で有効であった特徴量が、別のレジーム(高金利・高ボラティリティ環境)では機能しなくなる、あるいは全く逆のシグナルを発するようになることは珍しくない。特徴量エンジニアリングの課題は、単に有効なシグナルを見つけることだけでなく、市場の進化に合わせてそれを維持し、適応させ続けることにあるが、これは手作業では極めて困難なタスクである 4

これらの限界は、伝統的な特徴量エンジニアリングがもはや、アルファ探求の軍拡競争において決定的な優位性をもたらすものではなくなったことを示唆している。新たなブレークスルーは、人間の認知の限界を超えた領域から生まれる必要がある。

深層学習による特徴量の自動発見

深層学習は、伝統的な特徴量エンジニアリングが直面するこれらの課題に対する、根本的な解決策を提示する。その核心は、特徴量そのものをデータから自動的に「学習」する能力にある。これにより、人間の仮説に依存した発見プロセスから、純粋にデータ駆動型の発見プロセスへと移行することが可能となる。

この能力を技術的に支えるのが、Stacked Autoencoders (SAEs) や Long Short-Term Memory (LSTM) ネットワークといったアーキテクチャである。SAEsは、教師なし学習(unsupervised learning)の手法を用いて、金融時系列データから「深く、不変で、抽象的な特徴量」を階層的に抽出するために利用される 6。具体的には、SAEは複数の自己符号化器(Autoencoder)を積み重ねたニューラルネットワークであり、入力データを一度圧縮された中間表現(潜在表現)に変換し、その後、元のデータを復元するように学習する。この学習プロセスを通じて、中間層は入力データの最も本質的な情報を捉えた「ディープフィーチャー」を学習する。このプロセスは、特定の予測タスク(例えば、明日の株価の上昇・下落)を解くための教師データ(ラベル)を必要としないため、データに内在する構造そのものを捉えることができる。

こうしてSAEsによって抽出された高レベルな特徴量は、次にLSTMネットワークに入力される。LSTMは、時系列データの長期的な依存関係を捉えることに特化したリカレントニューラルネットワーク(RNN)の一種であり、その内部に「メモリセル」を持つことで、過去の情報を適切に保持・忘却することができる 6。これにより、SAEsが抽出した静的な特徴量に時間的な文脈を与え、最終的な予測(例えば、翌日の終値)を行う。この一連のフレームワークは、まずWavelet Transform(WT)などでデータのノイズを除去し、次にSAEsで特徴量を抽出し、最後にLSTMで予測するという、モジュール化されたアプローチを採用している 6

さらに、このアプローチを推し進めたのが「End-to-End」モデルの概念である。このモデルは、特徴量抽出と予測のステップを分離せず、生の市場データ(価格、出来高など)から取引シグナル(買い、売り、ホールド)までを、単一の巨大なニューラルネットワークとして直接学習する 7。このアプローチは、ブラック・ショールズ・モデルのような伝統的な価格付けモデルや、手作業で設計された特徴量を完全にバイパスする。モデルは、リスク調整後のリターンといった最終的な目的関数を最大化するように、数百万のパラメータを自己最適化していく。これは、特徴量エンジニアリングというプロセスそのものを、モデルの学習プロセスに内包させてしまうという、まさに究極の自動化である。

深層学習がもたらす真の価値は、単なる効率化や自動化に留まらない。それは、人間の直感や経済理論では到底到達し得ない、高次元空間における非線形な関係性を発見する能力にある。例えば、複数の時間スケールにわたるボラティリティ、出来高、オーダーブックの深さの間の複雑な相互作用といった、人間が数式で表現することすら困難なパターンを捉えることができる。これは、アルファの源泉を、解釈可能な経済的物語を持つものから、統計的にのみ有意性が示される、より抽象的で強力な「潜在的アルファ」へと拡張するものである。この能力こそが、深層学習を現代のアルファ探求における最も鋭利な「矛」たらしめているのである。

第二部:AIという「矛」を護る「盾」としてのMLOps

深層学習という強力な「矛」は、理論上、無限の可能性を秘めている。しかし、その矛がいかに鋭利であっても、ひとたび現実の戦場、すなわち本番の市場環境に投入されれば、その輝きは容易に失われる。バックテストという無菌室で育てられたモデルは、本番環境の予測不可能な変化に対してあまりにも脆弱である。このセクションでは、AIモデルの性能劣化という不可避のリスクを詳述し、そのリスクを管理するための本質的な規律、すなわち「盾」としてのMLOpsを論じる。

バックテストの幻想と本番環境の現実

バックテストは、過去のデータという静的な地図の上で戦略の有効性を検証するプロセスである。それは必要不可欠なステップではあるが、決して未来を保証するものではない。なぜなら、本番の市場は、地図そのものがリアルタイムで書き換えられ続ける、動的な領域だからである。この静的な過去と動的な現在の間の乖離が、AIモデルの性能劣化、すなわち「モデルドリフト」を引き起こす主要な原因となる。

モデルドリフトは、主に二つの形態で現れる 8

第一に、「データドリフト」(Data Drift、または共変量シフト)である。これは、モデルに入力されるデータそのものの統計的性質が、学習時とは変化してしまう現象を指す 8。例えば、あるモデルが比較的安定した低ボラティリティ市場のデータで学習されたとする。その後、地政学的リスクの高まりなどによって市場が突如として高ボラティリティのレジームに移行した場合、モデルは未知のデータ分布に直面することになり、その予測精度は著しく低下する可能性がある。あるいは、新たな金融商品が登場したり、取引所のルールが変更されたりすることも、入力データの分布を変化させる要因となり得る。

第二に、「コンセプトドリフト」(Concept Drift)である。これは、入力データと予測対象の変数(ターゲット変数)との間の「関係性」そのものが変化してしまう現象である 8。例えば、過去のデータからは「特定のニュースセンチメントの上昇は、株価の上昇に繋がる」という関係性(コンセプト)が学習されたとする。しかし、予期せぬ金融危機(例えば、2020年のCOVID-19パンデミックのような「突然のコンセプトドリフト」)が発生し、投資家心理が極度に悪化した場合、同じニュースセンチメントの上昇が、逆に「不安心理の裏返し」と解釈され、株価の下落に繋がるというように、関係性が逆転してしまう可能性がある 8。同様に、規制の変更や競合他社の新たな戦略なども、これまで有効だった市場の法則を根本から覆し、コンセプトドリフトを引き起こす。

これらのドリフト現象は、単なる理論上の懸念ではない。AIモデルは本番環境にデプロイされた後、数日以内に性能が劣化し始める可能性があり、ある調査によれば、機械学習モデルの91%がモデルドリフトの影響を受け、適切な管理がなされない場合、1年以内にその精度が40%以上も低下する可能性があると報告されている 8。バックテストの結果は、あくまで特定の時間断面におけるモデルの有効性を示すスナップショットに過ぎず、その有効性が未来永劫続くという保証はどこにもないのである。

MLOps:AIモデルのためのサイト信頼性エンジニアリング(SRE)

複雑で高価なAIトレーディング戦略を、継続的な監視と管理の仕組みなしに本番投入することは、ビジネスクリティカルなサーバー群を監視ツールなしで運用するに等しい。それは単なる技術的な見落としではなく、組織的なリスク管理の放棄であり、運用上の重大な過失であると言わざるを得ない。この新たなリスクに対応するための体系的なアプローチが、MLOps(Machine Learning Operations)である。

MLOpsは、データ管理、モデルの学習、デプロイ、監視、そして再学習という、機械学習モデルのライフサイクル全体を管理するための一連のプラクティスとツール群を指す 13。しかし、我々はMLOpsを単なる開発効率化のための「ベストプラクティス」として捉えるべきではない。むしろ、それはAIモデルという新たな種類のソフトウェアに対する「サイト信頼性エンジニアリング(Site Reliability Engineering: SRE)」として位置づけるべきである。この再定義は、MQL AIが提唱する「盾(SRE)」としてのサービス戦略の核心をなすものである 1

従来のソフトウェアにおけるSREは、可用性、レイテンシー、パフォーマンス、効率性といった指標(いわゆるゴールデンシグナル)に焦点を当て、システムの信頼性を維持することを目的とする。これに対し、AIモデルというシステムコンポーネントは、従来のソフトウェアとは根本的に異なる性質を持つ。AIモデルは決定論的ではなく確率論的であり、その「正しさ」は学習データが由来する統計的分布に依存する。しかし、前述の通り、金融市場はこの統計的分布が静的であるという基本的前提を常に裏切り続ける。したがって、AIモデルは本質的に、常に性能劣化の可能性に晒されているのである。

この文脈において、AIモデルのためのSRE、すなわちMLOpsは、従来のゴールデンシグナルに加えて、新たな、そして最も重要な指標を監視しなければならない。それは「モデルの妥当性(Model Validity)」である。MLOpsは、データドリフトやコンセプトドリフトをリアルタイムで検知し、モデルの妥当性が損なわれたと判断した場合に、自動的に警告を発し、再学習プロセスをトリガーするための制御システムとして機能する 13

この視点からMLOpsを捉え直すことで、その本質がより明確になる。MLOpsは、データサイエンティスト、機械学習エンジニア、そして運用チーム間のサイロを破壊し、コラボレーションを促進する 13。また、モデルの予測根拠の追跡やバージョン管理を通じて、金融業界で特に厳しく求められる監査可能性(Auditability)と規制遵守(Compliance)を担保する上でも不可欠な役割を果たす 14

結論として、深層学習という「矛」がもたらすアルファは、その発見の瞬間に最大となり、その後は減衰の一途を辿る。MLOpsという「盾」は、この減衰の速度を可能な限り緩やかにし、新たなアルファを発見するための時間と安定性を組織にもたらすための、必須の保険契約なのである。それはもはや選択肢ではなく、AIを駆使して市場で生き残るための、必要不可欠な生存戦略なのである。

第三部:堅牢なAIトレーディングシステムを支えるMLOps実践

MLOpsの戦略的重要性を理解した上で、次に取り組むべきは、その理念を具体的なエンジニアリングの実践へと落とし込むことである。このセクションでは、理論から実践へと橋渡しを行い、堅牢なAIトレーディングシステムを構築するために不可欠な、MLOpsパイプラインの核心的技術要素を詳述する。

再現性の礎:データ、モデル、コードのバージョン管理

本番環境で稼働するAIトレーディングシステムにおいて、「再現性」は単なる技術的な美徳ではなく、ビジネス上の絶対的な要請である。過去の特定の時点で行われた予測の根拠を正確に再現する能力は、予期せぬ損失が発生した際のデバッグ、規制当局による監査への対応、そして新たなモデル改善の出発点を確立するために不可欠である。

しかし、機械学習プロジェクトにおける再現性の確保は、従来のソフトウェア開発とは比較にならないほど複雑である。その理由は、成果物が「コード」だけでなく、「データ」と「モデル」という、三つの独立した要素の組み合わせによって決定されるためである。これら三つの要素は、それぞれ異なるライフサイクルで変化する。コードの小さな修正、学習データのわずかな変更、あるいはハイパーパラメータの調整が、全く異なる性能を持つモデルを生み出す。

この「指数関数的な複雑性」 18 を管理する上で、Gitのような従来のバージョン管理システムだけでは不十分である。Gitはテキストベースのコードの差分管理には優れているが、ギガバイト、あるいはテラバイト級に達することもあるデータセットやモデルファイルといった、巨大なバイナリファイルを効率的に扱うようには設計されていない。

この課題を解決するために設計されたのが、DVC (Data Version Control) のようなツールである 18。DVCは、Gitのワークフローを拡張し、データとモデルのバージョン管理を可能にする。その仕組みは巧妙である。DVCは、巨大なデータファイルやモデルファイルを直接Gitリポジトリに保存する代わりに、それらのファイルを外部のストレージ(例えば、AWS S3やオンプレミスのサーバー)に格納する。そして、Gitリポジトリ内には、それらの外部ファイルへのポインタ情報(ファイルのハッシュ値など)を含む、軽量なメタファイル(.dvcファイル)のみを保存する 18

このアプローチにより、開発者はコード、データ、モデルのバージョンを一つのGitコミットに紐付けて管理することが可能になる。これにより、git checkoutコマンド一つで、過去の任意の実験の状態(特定のバージョンのコード、データ、モデルの組み合わせ)を完全に復元することができる。データ変更の試みをGitのプルリクエストとしてレビューしたり、プロジェクトの不変の履歴を監査して、特定のデータセットやモデルがいつ、なぜ承認されたのかを追跡したりすることも可能になる 18

このように、DVCを導入することで、AIトレーディングシステムの開発プロセス全体が、監査可能で、再現可能で、そしてチーム内でのコラボレーションが容易な、真にプロフェッショナルなエンジニアリング規律へと昇華される。これは、堅牢なMLOpsパイプラインを構築するための、揺るぎない礎となる。

陳腐化との戦い:継続的監視と学習

バージョン管理によって再現性の基盤が確立されたとしても、それは静的な防御に過ぎない。市場の非定常性という動的な脅威、すなわちモデルの陳腐化に対抗するためには、より能動的な防御戦略が必要となる。それが「継続的監視(Continuous Monitoring)」と「継続的学習(Continuous Training)」のサイクルである。

MLOpsパイプラインの中核をなすこのサイクルは、本番環境にデプロイされたモデルを絶えず監視し、性能劣化の兆候を早期に検知し、必要に応じて自動的に再学習、検証、再デプロイを行うための自動化されたワークフローである。

継続的監視は、単にモデルの損益(P&L)を追跡するだけでは不十分である。P&Lの悪化は、多くの場合、問題が深刻化してからの遅行指標に過ぎない。真に効果的な監視システムは、モデルの性能指標(例:正解率、シャープレシオ)に加えて、モデルの入力データと出力(予測値)の統計的分布をリアルタイムで追跡し、学習時からの乖離、すなわちドリフトを検知する必要がある 12。例えば、入力特徴量の平均や分散が大きく変化したり、モデルの予測値の分布が偏り始めたりした場合、それはコンセプトドリフトやデータドリフトが発生している強力な兆候であり、性能劣化が顕在化する前の早期警告となる。

継続的学習は、この監視システムからのアラートをトリガーとして起動される 23。このプロセスは、最新のデータを用いてモデルを再学習させ、市場の新たな現実に適応させることを目的とする。重要なのは、この再学習プロセスをいかにしてトリガーするかという戦略の選択である。この選択は、システムの複雑性、運用コスト、そして市場変化への反応速度の間のトレードオフを伴う、重要なアーキテクチャ上の決定となる。

主要な再学習トリガー戦略には、以下の三つが挙げられる 24

トリガー戦略概要利点欠点トレーディングにおける理想的なユースケース
スケジュールベース一定のスケジュール(例:毎日、毎週)でモデルを再学習する。実装が容易。リソース使用量が予測可能。モデルが過度に陳腐化するのを防ぐ。ドリフトが発生していない場合は無駄な再学習となる。市場の急変に迅速に対応できない可能性がある。市場のダイナミクスが週・月単位で予測可能に変化する、中頻度帯の戦略。
パフォーマンスベース主要な性能指標(例:正解率、プロフィットファクター)が閾値を下回った場合に再学習をトリガーする。ビジネス価値に直結。必要な時のみ再学習するためコスト効率が良い。信頼性が高く低遅延な正解値データが必要だが、金融ではしばしば遅延する(例:約定結果の確定)。反応が遅すぎる可能性がある。パフォーマンスのフィードバックが迅速かつ明確な、超短期のマーケットメイキング戦略など。
データ/コンセプトドリフトベース学習データと本番データの統計的分布の間に有意な乖離が検出された場合に再学習をトリガーする。プロアクティブ。P&Lに影響が出る「前」に性能劣化の可能性を検知できる。正解値ラベルを必要としない。実装とチューニングがより複雑。無害なデータシフトでトリガーされ、不要な再学習(偽陽性)を引き起こす可能性がある。ボラティリティや流動性のレジーム変化に敏感な高頻度戦略。統計的変化への反応が死活問題となるモデル。

この比較からわかるように、理想的なトリガー戦略は一つではない。最も洗練されたアプローチは、データドリフトベースのトリガーを主要な早期警告システムとして用い、パフォーマンスの低下を最終的な安全装置として組み合わせるハイブリッド戦略であろう。技術リーダーは、自社の戦略の特性、データの利用可能性、そして許容されるリスクレベルを総合的に勘案し、最適なトリガー戦略を設計する必要がある。この戦略的選択こそが、陳腐化との終わりのない戦いにおいて、競争優位性を維持するための鍵となるのである。

結論:次世代アルファ創出のための統合的アプローチ

定量的ファイナンスにおけるアルファ探求の歴史は、より優れた予測モデル、すなわち、より鋭利な「矛」を求める探求の歴史であった。特徴量エンジニアリングという職人技から、深層学習による潜在的パターンの自動発見へと、その矛は進化を続けてきた。この進化が、これまでアクセス不可能であった新たなアルファの源泉を切り拓いたことは疑いのない事実である。

しかし、本稿で論じてきたように、現代の市場環境における持続的な成功は、もはや矛の鋭さのみによって決まるものではない。市場の非定常性という避けられない現実が、いかなるモデルをも時間とともに陳腐化させる。デプロイされた瞬間から性能劣化が始まるAIモデルは、強力であると同時に極めて脆弱な存在である。この脆弱性を直視せず、バックテストの栄光に安住することは、確実な失敗への道を歩むことに他ならない。

真の競争優位性は、矛の性能と、それを守る「盾」の堅牢さとの統合によってのみ達成される。この盾こそが、MLOpsという名で体系化された、AIモデルのためのサイト信頼性エンジニアリング(SRE)である。それは、データ、モデル、コードの完全な再現性を保証するバージョン管理から、モデルドリフトをプロアクティブに検知する継続的監視、そして市場の変化に適応するための継続的学習に至るまで、モデルのライフサイクル全体を網羅するエンジニアリング規律である。

MLOpsは、もはや開発効率化のための「あれば望ましい」選択肢ではない。それは、AIという高価な戦略的資産への投資を保護し、予期せぬ運用リスクから組織を防衛し、そして何よりも、戦略の陳腐化という根源的な課題に対抗するための、本質的なリスク管理フレームワークである。AIトレーディング戦略を堅牢なMLOpsパイプラインなしで本番投入することは、重要なサーバーを監視なしで稼働させることと同等の無謀さである。

次世代のアルファ創出は、個々のクオンツの閃きだけに依存する時代から、組織的な能力に依存する時代へと移行した。その能力とは、深層学習を用いて潜在的アルファを自動的に発見する能力と、MLOpsを用いてその価値を持続的に、かつ信頼性高く運用する能力の二つを、分かちがたく統合したシステムを構築・運用する能力に他ならない。

未来の定量的トレーディングを制するのは、最も鋭い矛を持つ者ではない。鋭い矛と、それを支える最も堅牢な盾の両方を備え、発見から運用までのサイクル全体を高速で、かつ規律正しく回し続けることができる組織である。この統合的アプローチこそが、終わりのない軍拡競争の先にある、持続可能な競争優位性への唯一の道筋なのである。MQL AIは、この次世代の課題に対する明確なビジョンと、それを実現するための世界レベルの専門知識をもって、先進的な顧客と共に価値を「共創」する戦略的パートナーとなることを目指している 1

引用

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  7. Deep Learning for Options Trading: An End-To-End Approach – arXiv, https://arxiv.org/abs/2407.21791
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  11. What is Model Drift? Types & 4 Ways to Overcome – Research AIMultiple, https://research.aimultiple.com/model-drift/
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  14. Maximizing Machine Learning Efficiency with MLOps and Observability | Article by AryaXAI, https://www.aryaxai.com/article/maximizing-machine-learning-efficiency-with-mlops-and-observability
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  18. Versioning Data and Models | Data Version Control · DVC, https://dvc.org/doc/use-cases/versioning-data-and-models
  19. Version Control for Data and Models Using DVC | CodeCut, https://codecut.ai/introduction-to-dvc-data-version-control-tool-for-machine-learning-projects-2/
  20. iterative/dvc: Data Versioning and ML Experiments – GitHub, https://github.com/iterative/dvc
  21. How Do You Maintain a Deployed Model? | Fiddler AI, https://www.fiddler.ai/model-monitoring-tools/how-do-you-maintain-a-deployed-model
  22. What is Continuous Validation? – Encord, https://encord.com/blog/continuous-validation-machine-learning/
  23. Retraining Model During Deployment: Continuous Training and Continuous Testing – neptune.ai, https://neptune.ai/blog/retraining-model-during-deployment-continuous-training-continuous-testing
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  25. Framework for a successful Continuous Training Strategy – Towards Data Science, https://towardsdatascience.com/framework-for-a-successful-continuous-training-strategy-8c83d17bb9dc/

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